30年分の刺が、今も胸を刺し続ける
「お義母さん、お着替えしましょうね」
ベッドで横たわる95歳の義母の体に触れるたび、私の指先は微かに震える。
かつてこの手は、この人から投げつけられた「あんたの親の顔が見たいわ」「うちの家風を汚す疫病神」という言葉の数々に、何度握りしめられ、涙を拭ったことだろう。
義母は今や、自力では起き上がることすらままならない老婆だ。
薄くなった皮膚、虚空を見つめる濁った瞳。
世間の人は言う。「もう先は長くないんだから、優しくしてあげなさい」「仏の心で許してあげなさい」と。
けれど、私の心の中には、30年以上かけて堆積したドロドロとした黒いタールのような憎悪が居座っている。
夕食の支度中、包丁を持つ手がふと止まる。
義母の部屋から聞こえる微かな咳払いでさえ、私の動悸を激しくさせる。
「早く終わってほしい」
――そう願ってしまう自分自身が、化け物のように醜く思えて、吐き気がした。
私は、義母への憎しみと、そんな自分を許せない罪悪感の板挟みになりながら、出口のない暗闇を彷徨っていた。
許せない自分を、また責めてしまう夜
夫は「もうボケてるんだから、昔のことを言っても始まらないだろ」と、私の心の傷を「賞味期限切れ」のように扱う。それがまた、私の孤独を深めた。
私は、誰にも言えないこの憎悪を浄化しようと、必死に「いい嫁」の仮面を被り続けてきた。
怒りが湧けば自分を叱り、憎しみが募れば「私が未熟だからだ」と自分を責める。
「許さなければいけない」という呪縛が、義母の嫌がらせ以上に私を深く傷つけていることに、私は気づいていなかった。
ある夜、介護の疲れと消えない憎しみで頭が割れるように痛くなり、私は逃げるように縁側へ出た。冷たい夜風が頬を叩く。
暗い庭を見つめながら、「このまま消えてしまいたい」と独りごちた時だった。
究極の「自分ファースト」な救世主
おい、そこのシワくちゃ。ため息のつきすぎで庭の草が枯れそうだニャ
突然、足元からふてぶてしい声が響いた。
驚いて目を向けると、そこには室外機の上で、はち切れんばかりの体を丸めた太っちょの猫がいた。
「猫が……喋った?」
「フクだニャ。お前、さっきから『許さなきゃ』なんてブツブツ言って、自分をいじめて何が楽しいんだニャ?」
フクと名乗ったその猫は、後ろ足で豪快に耳の裏を掻きながら、こちらを小馬鹿にしたような目で見た。
「だって、憎いなんて思ってちゃいけないじゃない。私はこの家の嫁だし……」
「ケッ、くだらねえニャ! 嫁の前に、お前はお前だニャ。嫌なもんは嫌、憎いもんは憎い。それで十分だニャ。」
フクは立ち上がり、私の膝の上にドサリと飛び乗ってきた。その重みと温かさに、私の心が一瞬だけ緩む。
「いいかニャ? 猫の世界に『許す』なんて高尚なルールはないニャ。隣の猫に引っ掻かれたら『アイツ大嫌いだニャ!』って思うだけ。それで終わりだニャ。お前はわざわざその傷跡を毎日掘り返して、『ああっ、まだ治らない、許せない私はダメな猫だ』って泣いてるんだニャ。バカだニャあ」
「でも、そう思わないと、このドロドロした気持ちに飲み込まれそうで……」
「飲み込まれていいんだニャ! 憎しみを消そうとするから苦しいんだニャ。ただ、そこに置いとけニャ。 『ああ、今日も私はお義母さんが死ぬほど嫌いだ。よしよし、それでいい』って、自分を肯定してやるんだニャ。自分の味方は自分しかいないんだニャ」
フクは私の腕を甘噛みすると、そのまま丸くなって寝始めた。
「自分の味方は、私だけ……」
そうだ、私はずっと、私自身に「嫌だ」と言うことさえ禁じてきた。
義母の攻撃から自分を守るどころか、一緒になって自分を攻撃していたのだ。
「お義母さん、大嫌い。死ぬまで許さない」
暗闇に向かって、生まれて初めて本音を吐き出した。
すると、不思議なことに、あんなに重かった胸のつかえが、少しだけ軽くなったのを感じた。
私が取り戻した、私のための人生
翌朝。義母の部屋に入ると、相変わらず不機嫌そうな顔がそこにあった。
「お茶が冷めてるわよ」
いつもなら「すみません」と謝りながら心が波立ったが、今の私は違った。
(はいはい、今日も絶好調で憎たらしいわね。でも、私はそんなあなたを憎んでいいって決めたから)
私は無理に笑顔を作るのをやめた。ただ事務的に用件を済ませ、心の中では「今日の昼食は私の好きなケーキを買いに行こう」と、自分の機嫌を取ることに全神経を集中させた。
義母の介護が終わるわけではない。過去が消えるわけでもない。
けれど、私は「いい嫁」という檻を、自分の手で壊した。
憎しみを抱えたままでも、私は幸せになれる。
フクが教えてくれた究極の「自分ファースト」。
それを胸に秘めた今の私は、以前よりもずっと強かった。
夕方、買い物帰りにふと空を見上げると、燃えるような夕焼けが広がっていた。
「さて、明日は何をしようかな」
私は、私の人生を歩き始めている。その足取りは、昨日までとは比べものにならないほど、軽やかだった。
登場人物紹介:フク
おう、俺の名前は「フク」だニャ。
たまお悩み相談室のWEB小説に、気まぐれでふらりと現れる猫だニャ。
ちょっと太めでふてぶてしい顔? うるさいニャ、これが俺のベスト・フォルムなんだから放っておけニャ。
俺の生き方は究極の「自分ファースト」だニャ。
美味しいおやつをもらった時しか喉は鳴らさないし、愛想笑いなんて絶対にしない。人間の社会にある「こうあるべき」とか「いい妻・いいお母さんでいなきゃ」なんていう謎のルール、俺たち猫には一切関係ないニャ。
なんで俺がアンタの前に現れるかって?
他人の顔色ばっかり伺って、自分を押し殺してボロボロになってる人間を見ると、なんだか見ててイライラするからだニャ。「自己犠牲」なんていう重たいもん背負ってるアンタに、俺が身も蓋もないツッコミを入れてやるニャ。
人間ってほんと、面倒くさい生き物だニャ。
嫌な時は噛む、寝たい時は寝る。それで嫌われるなら上等だニャ。アンタも俺みたいに、ガチガチに固まった肩の力を抜いて、もうちょっとワガママに生きてみろニャ🐾








