本作のあらすじ
「私、彼とレスなんです」——
五十代の女性が、京都の西陣まで「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
付き合って八ヶ月の、十二歳下の彼。最初の三ヶ月はあったのに、ここのところはずっと、手をつなぐところで止まっている。それでも彼は毎週、会いに来てくれる。私の魅力が、もうなくなったのでしょうか——その問いを抱えて、彼女は町家の坪庭が見える奥の席に腰を下ろす。
夕日が坪庭の苔を染めるころ、たま先生はその問いに、どんな笑顔を返すのだろうか——
「私、彼とレスなんです」
その一言を、白石さんはまるで、お天気の話の続きみたいに口にした。
私の右手のティーカップは、ちょうどソーサーに戻されたばかりだった。お茶の表面で湯気がひと筋ゆれて、それから坪庭のほうへ細く流れていく。西陣の路地のいちばん奥にある町家のカフェで、私たちは午後の四時を少し回ったところに向かい合っていた。
「ええ」
私は、できるだけ普段どおりの相づちを返した。
驚いた素振りを返してしまうと、白石さんの中でせっかく口の端まで来たものが、また奥に引き戻されてしまう。そういう声色を私は、十年以上の鍼灸の臨床のなかで身体で覚えてきた。
白石さんは、手元のカップの縁を指で軽くなぞった。
「先生、変な話のしかたで、ごめんなさい。座ってすぐにいきなりこんな話で」
「いいえ。お話しやすいところから、で大丈夫ですよ」
私はそう返して、少しだけ微笑んだ。
——
町家のなかは、思ったよりも静かだった。
格子の向こうの路地には、近所の方の自転車のベルが時々通っていく。けれどその音は格子の隙間で一度こしのけられて、店の中まで届くころには、ふっと優しい音に変わっている。
私たちが座っているのは、奥座敷の坪庭に面した席だった。
苔の濡れた色のうえに、青もみじの影が細かく揺れている。五月の夕方の日が、屋根の角度にちょうど沿って、坪庭の手水鉢を斜めに照らしはじめていた。
「いい場所ですね」
白石さんが、視線を一度だけ庭に向けた。
「ここのこと、先生のラジオで、何度かお聞きした気がして」
「ああ、そうかもしれませんね」
「きょうここに来るまでの道で、迷子になりかけました。路地が、思っていたよりずっと細くて」
「西陣のあのあたりは、地元の私でも時々、自分がどっちを向いているのかわからなくなるんです」
そう言うと、白石さんがふっと笑った。
笑った瞬間に、目元の張りつめていたところが少しだけ緩んだ。年齢を重ねた女性の顔のなかに、二十代の頃の柔らかい笑い方が一瞬だけ顔を出すような、そういう笑い方だった。
——
白石さんとは、これまでに三度ほどオンラインで話してきていた。
最初に画面の向こうにいらしたのは、たぶん、年明けの寒さのいちばん厳しいころだったと思う。声の出し方の丁寧な方で、こちらの問いには必ず、ひと呼吸置いてからお答えになる。Zoomの画面の中の白石さんは、いつも背筋がぴんと立っていた。
その方が、こちらまで会いに来てくださった。
それも京都の中心からだいぶ歩いた、西陣の町家の奥まった一席まで。
「電車のなか、ずっと窓の外を見ていました」
カップを置きながら、白石さんが言った。
「東京を出るときにお腹のあたりがきゅっとなって、そのあとはなんだか頭の中が少しずつ静かになっていく感じで」
「そういうの、ありますね」
「先生のところに来るのに、こんなに緊張しなくてもいいのに、って自分でも思っていたんですけれど」
「いいえ。緊張なさってここまで来てくださったからこそ、そのお話のはじめが、こうやって出てくるんですよ」
白石さんは、私の言葉を一度頷いてから受けとめた。
それから、左手の指輪のないほうの手で、自分のコートのボタンをそっと一つ外した。室内は十分に暖かいのにいま外したというのは、たぶんこれからの話の支度なのだろう。
——
五月の夕方の光は、町家のなかに柔らかい線のかたちで入ってくる。
その線が、白石さんの肩の少し上のあたりで止まっていた。
「先生、笑い飛ばしてくださって、いいんです」
白石さんが、自分のカップに目を落としたまま言った。
「五十を過ぎた女が、十二も年下の人とのことで悩んでいるなんて、傍から見たら滑稽でしょう?」
「いいえ、滑稽なんかじゃありませんよ」
私はゆっくり、首を横に振った。
「白石さんがいまここに座っていらっしゃることが、私にはとても自然なことに思えています」
——
白石さんが、すこしだけ目を見開いた。
「自然ですか」
「ええ。年齢が違っていても、お一人とお一人がお互いの時間のなかにちゃんと相手を入れていらしたら、そこで悩みが出るのは当たり前のことなんですよ」
「先生、これから話すこと、すこし長くなるかもしれません」
「もちろん、いいですよ」
「途中で、自分でも何を話しているかわからなくなるかもしれません」
「迷子になっても、また同じ路地に戻ってきていただいて、大丈夫です」
白石さんが、また少し笑った。今度のは、目尻のあたりまで届いた笑いだった。
坪庭の苔のうえで、青もみじの影がいちまい、ゆっくりと位置を変えた。
夕方の光が、白石さんのカップの縁を、薄く金色になぞった。
長い話の入口に、私たちはいま、ようやく一緒に立ったところだった。








