本作のあらすじ
「夏休みに、家を出ます」——
三十代の女性が、京都まで「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
「自由になりたい」と告げて離婚届を差し出した夫。義母・義祖母との同居、二人の小学生の娘たち、そして探偵を入れて知った、夫の半年間の影。彼女は静かに、けれど着実に、別れの準備を進めている。
子どものために、母として、彼女がいま選ぼうとしている道に、たま先生はどんな言葉を返すのだろうか——
「先生」
しばらくの沈黙のあと、青木さんが口を開いた。
「来週の月曜日に、弁護士さんと二回目の面談があります」
「ええ」
「そこで調停の申立書の中身を、最終確認することになっています。次の月の頭には家庭裁判所のほうに、出す予定です」
「動いていらっしゃるんですね」
「はい。報告書が出てから、なるべく早く進めようと思って」
青木さんの口調はいつのまにか、来たときよりもすこし張りが戻っていた。決めたことを、自分の口で順に並べていけるようになった人の声だった。
——
「お住まいのほうは、どうされる予定ですか」
「家を出ることになると思います」
そう言って、青木さんがすこし視線を膝に落とした。
「義母も義祖母も、もう私が長年世話になった方たちですし、お別れの挨拶はちゃんとしたいと思っています。義母にはまだ何も話していないんですけれど、たぶん向こうもすこし、感づいていらっしゃるところはあるんじゃないかなって」
「ええ」
「子どもたちと一緒に、しばらくは私の実家のほうにお世話になります。距離としては、いまの家から電車で四十分くらいですけれど、学区が変わるので転校の手続きも、夏休みのあいだに済ませる予定です」
「お子さまたちには、いつ頃、お話しなさるご予定ですか」
「夏休みに入ってすぐ、二人を連れて私の実家に行こうと思っています。そこでゆっくり時間を取って、お話します」
私は青木さんの目を見た。
「もう、青木さんのなかに地図がありますね」
青木さんが、ふっと、笑った。今日いちばん、目の縁まで届いた笑い方だった。
「報告書が来てからの三か月で、私、自分でも驚くくらいいろんなことを決めてきました」
「ええ」
「決めると、決まるんですね」
——
私たちは、しばらくして、店を出た。
外の空気は、午後の終わりのものになっていた。デルタの三角州の上を、夕方の長い影がゆっくりと伸びはじめていた。
土手沿いを少しだけ、二人で歩いた。
川風は、来るときより、わずかに冷たさを取り戻していた。けれどそれは、夜が来る前の、ひとときの清涼でもあった。
「先生」
「はい」
「今日、ここに来て、よかったです」
「私も、青木さんとこうしてご一緒できて、よかったです」
「先生に、ひとつだけ、お礼を言わせてください」
「ええ」
「『君が悪いわけでもない』っていう夫の言葉を、私はもう半年、自分のなかで繰り返してきました。あれは、優しい言葉なのかひどい言葉なのか、ずっと自分でも分からなかったんです」
「ええ」
「先生がそれを『閉じ込められた言葉だ』って、言葉にしてくださいました。そのひと言で、私、半年間自分の中で答えの出なかったところに、ようやく名前がついた気がしました」
私は、ゆっくり頷いた。
「青木さん。それは、青木さんがずっと自分のなかでその言葉を、捨てずに持っていらしたからです」
——
出町柳の駅まで、二人で歩いた。
駅の改札のまえで、青木さんはもう一度、深く頭を下げた。
「お子さまたち、お大事に」
「ありがとうございます」
「青木さんも、ご自身のことをいちばん大事になさってくださいね」
「はい」
青木さんは改札を抜けていく直前に、もう一度こちらを振り返った。それから、すこしだけ笑って頷いて、ホームのほうへと歩いていった。
私はしばらく、改札の外側に立っていた。
——
そのあと、私は地下鉄を乗り継いで、四条のあたりで降りた。
「をぐら」の暖簾がいつものように、提灯の下で揺れていた。
「いらっしゃい」
カウンターのなかから、尾崎さんがこちらを見た。客はまだ、誰も入っていない時間だった。尾崎さんは、私が二十代に勤めていた会社の少し年上の先輩である。私はずっと「ザキ姉ちゃん」、向こうは「たまちゃん」と呼び合っている、いちばん古い友人だった。
「たまちゃん。今日、なんか、長い顔やね」
そう言って、ザキ姉ちゃんは私の前にほうじ茶のお湯呑みを置いた。湯気が、ひと筋、まっすぐに立ちのぼった。
「子どもさんがいるお母さんのお話、聴いてきました」
「ふうん」
ザキ姉ちゃんはそれ以上、何も訊かなかった。代わりに、奥の冷蔵庫からお惣菜の小鉢をふたつ、出して並べてくれた。湯葉の煮浸しと、菜の花のおひたしだった。
「食べ。たまちゃん、お昼食べてへんやろ」
「いただきます」
私は湯葉に箸をつけた。
——
「ザキ姉ちゃん」
「ん」
「子どもがおる人の決断って、ほんまに重いね」
「重いに決まってるやろ」
ザキ姉ちゃんが、カウンターの内側で、布巾でグラスを拭きはじめた。
「でもな、たまちゃん」
「うん」
「重いっていうのは、その人がちゃんと考えてるっていう証拠でもあるんやで。軽い決断は、軽い人間からしか出てこんもんや」
私は湯呑みのほうじ茶を、ひとくち含んだ。
ザキ姉ちゃんのこういう短い言葉が、長い一日のいちばん最後にふっと自分の体のなかに沁みていく時間が、私は好きだった。
——
「青木さん」
私は心のなかで、その名前をもう一度呼んでみた。
来週の月曜日、青木さんは弁護士事務所の面談室に座っているだろう。書類の中身をひとつずつ、自分の目で確認していくのだろう。
夏休みの終わりには、二人の娘さんと一緒に新しい家のことをひとつずつ、決めていらっしゃるかもしれない。
それぞれの場面に、私はいない。
けれど、青木さんがそのひとつひとつの場面で、自分の口から「決める」という言葉をもう、ためらわずに使えるようになっていたら——それでいい。
ほうじ茶の湯気は、まだ、まっすぐに立ちのぼっていた。
提灯のあかりが、店の障子を内側からふわりと染めていた。








