本作のあらすじ
「夏休みに、家を出ます」——
三十代の女性が、京都まで「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
「自由になりたい」と告げて離婚届を差し出した夫。義母・義祖母との同居、二人の小学生の娘たち、そして探偵を入れて知った、夫の半年間の影。彼女は静かに、けれど着実に、別れの準備を進めている。
子どものために、母として、彼女がいま選ぼうとしている道に、たま先生はどんな言葉を返すのだろうか——
ライブハウスの楽屋には、本番前のあの独特の匂いが満ちていた。
古い革のソファ、誰のものとも知れないコロンの残り香、それからどこかから漏れてくるリハーサルのピアノ。本番までは、あと三十分ほどだった。
「あんたの今日の声、ええ感じやで」
ピアノの蓋から手を離して、草薙さんがそう言った。鍵盤に向かっていたうしろ姿が、ゆっくりとこちらを向いた。草薙さんは、私が月にいちど京都の小さなライブハウスで歌わせていただくときに、ずっと隣でピアノを弾いてくださっている六十代の方である。背筋の伸びかたは、もう三十年以上、毎晩のように鍵盤の前に座り続けてきた人だけが持つ、まっすぐさだった。
「ありがとうございます」
私は鏡の前で、口紅を結び直しながら答えた。
こうして三人で歌うようになって、もう何年が経つだろう。最初のころは互いの音を慎重に探りあっていた。今はもう、ほとんど目で合図を交わすだけで通じる。
「あ、たまさん、その口紅、新しいやつ?」
アコーディオンを膝に置いた北さんが、こちらを覗き込みながら言った。北さんも同じトリオの仲間で、四十代後半のアコーディオン弾きである。楽屋では、いつもこういう要らないことに目敏い人だった。
「先月のね。ここの本番にしか、つけないんですよ」 「もったいないわ。普段から塗っとき」 「普段に塗ったら、なんやろ、自分の顔が自分のじゃないみたいになるんですよ」 「それは、ええことやないか」
草薙さんが、低い笑い声をひとつ落とした。北さんも笑った。私も笑った。
——
本番が始まる前の三十分は、私にとって、不思議な時間である。マイクの前に立つ自分と、いつもの自分と、そのちょうど境目あたりに、もう一人の自分が立っているような感じがする。長く息を吸って、ゆっくり吐く。それを何度か繰り返す。
ふいに、楽屋の机の上のスマホが小さく震えた。
メッセージの着信通知だった。
「青木です」
差出人の名前を、私は声に出さず、目だけで読んだ。
これまでに、何度か、画面越しにお話を聞いてきた女性である。三十代の半ば、小学生の娘さんが二人。義母さま・義祖母さまと同居していらして、最後にお会いしたのは、年明けからふた月ほど経ったころだったと思う。
文面は、続いていた。
「先生。今夜は本番の日と、それからホームページで拝見しました。お忙しいときに、申し訳ありません」
「夏休みに、家を出ます」
「一度だけ、京都までうかがって、お話を聞いていただけませんでしょうか」
——
私は口紅をしまった鞄の口を、そっと閉じた。
メイクの仕上げの最中だったその指は、最後まで動ききらずにしばらく、宙に止まっていた。
「お、たまさん。本番前の顔、しとるな」
北さんがこちらに気がついて、声のトーンを少し落とした。
「すみません、ちょっとだけ」
私は鏡から目を離して、スマホに向かった。
短く、こう打った。
「次の週末、京都までお越しになれますか」
送ってから数秒で、返信が届いた。
「はい。うかがわせていただきます」
その返信の早さに、私は画面のなかの「はい」というひと言をしばらく、じっと見ていた。長い時間、誰かに「来てもいい」と言われるのを待っていた人が打つ「はい」だった。
——
ステージから、リハーサルの最後のピアノが流れてきた。
「たまさん、そろそろ」
スタッフの声に、私は鏡の前に向き直って、いったん深く息を吸った。
——青木さんのことは、また来週、その場所でちゃんと聴く。今夜の私には、いまの私に与えられた仕事がある。
そう自分に言い聞かせて、私は楽屋の戸を押した。廊下の向こうから、客席のざわめきが、海のような遠い音で届いてきていた。
——
五月の半ば、ある日の昼下がり。
出町柳の駅から、歩いて十分ほどのところにある、小さな喫茶店だった。
鴨川と高野川が出会う、デルタと呼ばれる三角州。その西側の土手沿いに、昔から地元の学生たちに愛されてきたその店はある。窓の外には、二本の川がひとつになる、ちょうどその合流点が見える。
私はいつもの窓辺の席に座って、コーヒーを頼んだ。
五月の半ばの、午後二時。日差しは、もう冬のものではない。けれど、川面を渡ってくる風にはまだ、初夏の厚みが宿りきっていない。コートはもうしまった、という季節と、半袖はまだ早い、という季節の、ちょうど境目あたりだった。
少し早めに着いて、川を眺めていた。デルタの飛び石の上を、若い学生らしい三人連れが、笑いながら渡っていく。彼らの背中は、彼らの年齢だけが知っている軽さで、向こう岸へと跳ねていった。
——
「先生」
声がしたのは、十分ほどあとのことだった。
振り返ると、扉のところに、ベージュのカーディガンを羽織った女性が立っていた。
淡いブルーのワンピースに、足元はスニーカー。バッグは、子ども用のものと大人用のものが、ふたつ並んで肩から下がっている。出かけ先で、子どもの何かが起きたときに、すぐ持って動けるように——そういう習慣が身についた人の、母の鞄の持ち方だった。
「青木です。今日は、ありがとうございます」
向かい合って座ると、青木さんは深く頭を下げた。Zoomの画面で何度か見てきたお顔は、いま目の前にすると頬のあたりがすこし削げて、目の下にうすく影が落ちていた。半年から一年のあいだに、自分のなかに何かを閉じ込めて、それと一緒に体まで少しずつ薄くしてきた人——そんな印象だった。
コーヒーが運ばれてきた。
青木さんは、砂糖もミルクも入れずに、ひとくちだけ口をつけた。それから、カップを置いて、両手を膝のうえにそろえた。手の甲の指の付け根に、結婚指輪がそのままの位置で光っていた。
「先生」
「はい」
「今日は、聞いていただきたいことがあって伺いました」
「ええ」
「夏休みに、家を出ます」
——
その短い一文を、青木さんはほとんど抑揚をつけずに口にした。
長く、自分のなかで何度もその言葉を反復してきた人の口から出る言葉だった。「ようやく」とか「ついに」とかの感情をもう、そこに乗せる必要を感じていない人の言い方だった。
私は、すぐには答えなかった。
外の川面を、五月の風がいちまい撫でていった。








