本作のあらすじ
「夏休みに、家を出ます」——
三十代の女性が、京都まで「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
「自由になりたい」と告げて離婚届を差し出した夫。義母・義祖母との同居、二人の小学生の娘たち、そして探偵を入れて知った、夫の半年間の影。彼女は静かに、けれど着実に、別れの準備を進めている。
子どものために、母として、彼女がいま選ぼうとしている道に、たま先生はどんな言葉を返すのだろうか——
「夏休みに、家を出ます」
その一文を口に出してから、青木さんはしばらく自分のなかでもう一度、その言葉を反芻するような顔をしていた。
私は、コーヒーをひとくち含んだ。コーヒーの温度に頼るということを、私は長い時間をかけて身体で覚えてきた。喉のうしろで、温かさがゆっくりと胸に降りていった。
「青木さん。今日は最初から、聞かせてくださいね」
「はい」
青木さんは両手の甲を、軽く重ねた。
「結婚して、もう十二年になります」
「ええ」
「夫の家で、義母と義祖母と同居しています。義父は三年ほど前に看取りました」
「そうでしたか」
「子どもは、上が小学三年生、下が一年生の姉妹です」
そう言ったとき、青木さんの口元がほんのわずかだけゆるんだ。母の話をする顔だった。けれどその表情はすぐに、また閉じた。
——
「半年ほど前から、夫の様子がおかしくなりました」
青木さんは、川面のほうへ目をやった。
私の頭のなかにもふっと、ひとつの場面が立ちのぼった。
——たぶん、青木さんがいま自分の中で見ている景色とよく似た景色を、私もいまその横で見せてもらっているのだろう。
「夜、帰ってくる時間が少しずつ遅くなりました。いつもなら私がお風呂を上げて、子どもたちの寝かしつけが終わるくらいに玄関の音がしていたんです。それが、私がもう寝ている時間になってきて」
「ええ」
「最初は、仕事が忙しいんだろうと思っていました。年度末でしたし、四月の人事のことでいろいろあるんだろうって」
青木さんがコーヒーカップに指をかけた。けれど持ち上げずに、また下ろした。
「でも、あるとき」
——
ある夜のことを、青木さんはすこし伏し目がちに語りはじめた。
下の娘さんが、夜中に熱を出して、青木さんが額に冷たいタオルを当てていたのだという。寝室の障子越しに、玄関の音がした。夜中の二時を回っていた。青木さんはそっと立ち上がって、ご主人を出迎えに、廊下に出た。
「『お帰り』って、私、声をかけたんですけど」
青木さんはその夜の自分の声を、思い返すような口調で続けた。
「夫は、私の顔を見ませんでした」
「ええ」
「靴を脱いで洗面所のほうへすうっと行ってしまって。そのとき私、ああ、この人いま、私のことを見たくないんだなって思ったんです」
「『いま見たくない』、ですか」
「はい。『見えないんじゃなくて、見たくない』って、はっきりわかりました」
——
私は、川面のほうを見た。
いま、青木さんが話してくださっているのは、半年前の、夜中の二時の廊下である。けれどその情景を聴いている私自身もすこしだけ、その夜の廊下に立っているような気がした。明かりを消したリビングのほの暗さ、洗面所の蛇口から漏れる水音、そしてご主人のこちらに向けられない背中——青木さんがひとりそれを見ていた時間の長さを、私は私の側でも、そっと受けとめておこうと思った。
——
「先生」
青木さんが、川面から目を戻した。
「私たち、結婚してからけっこう、よく話す夫婦のほうだったと思います」
「ええ」
「子どものこと、義母のこと、義祖母のこと。家のなかで起きることは、なんでも二人で話していました。夫もけっこう話す人で、休みの日は家事のあいまに何時間も、私とお茶を飲んでいるような人だったんです」
「そうですか」
「だから、夜中のあのとき玄関で目を合わせなかったその数秒で、私はそれまでの十年以上の二人をいっぺんに失ったような気がしました」
——
私は首を、ゆっくりと縦に振った。
「青木さん、それはつらかったでしょうね」
「はい」
青木さんがはじめて、はっきりと「はい」とだけ返した。
そのひと声は、ほかの誰に向かって出された声でもなかった。半年間、自分のなかで、誰にも返事をもらえないまま積もっていった「つらい」という言葉がここで、はじめて外の空気にひと口だけ触れた——そんな種類の「はい」だった。
——
「夫が、はっきり、自分の口で言ったのは、それから少しあと、二月の終わりくらいでした」
「何と、おっしゃったんですか」
青木さんが、こちらの目を見た。
「『一年くらい前から、好きじゃなくなった』って」
「……」
「『自由になりたい』『無意識に良い夫、良い父親を押し付けられるのが嫌だ』って」
私は、すぐには返事をしなかった。
——青木さんはそのとき、どこに座っていたのだろう。 ——リビングだろうか、それとも台所だろうか。子どもたちは、どこにいたのだろう。
聴いている私自身の中で、ひとつふたつと小さな問いが立ちのぼった。けれどそれを口にはせず、私は青木さんの呼吸の速さに、自分のそれを合わせていた。
——
「私、再構築を、提案したんです」
青木さんは、テーブルのうえで指を組み直した。
「子どももまだ小さいし、義母も義祖母も同居しているし、いまここで終わらせるのは、誰にとってもよくないと思って。カウンセリングに一緒に行こう、お互いの何が悪かったのか、ちゃんと話そうって」
「ええ」
「でも、夫は、首を振りました」
「……」
「『そこまでして自分をねじ曲げたくない。これが自分だから謝らないし、かといって君が悪いわけでもない』って」
青木さんは、ご主人のその言葉をよく憶えている人の言い方で、ひと言ずつはっきりと反復した。
「『君が悪いわけでもない』、ですか」
「はい」
私は、ゆっくりと頷いた。
「その言い方は、青木さんをいちばん閉じ込めた言い方ですね」
青木さんが、はっと、こちらを見た。
それから、ひと呼吸あとに、こう言った。
「先生。それを言ってくださる方、はじめてです」








