本作のあらすじ
「夫婦なのに、私はずっと、孤独でした」——
東京の郊外から京都まで、ひとりの女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
母の介護、フルタイムの仕事、そして夫の無関心。「介護はお前の家族の問題だろ」と言い放った夫の言葉が、二十年近い結婚生活のなかに張りつめてきた孤独を、ついに表に引きずり出した。
夫婦という形のなかで、ひとり立ち尽くしてきた女性に、たま先生は何を返すのだろうか——
川床の店を出て、私たちは貴船神社のほうへ、しばらく歩いた。
山道は、午前中よりも緑の濃さが増していた。
川の音は変わらないが、空気の色が少しだけ夕方のものに変わっている。
歩きながら川口さんは、深く息を吸ってゆっくりと吐いた。
「ここに来て、よかったです」
「そう言っていただけると、こちらも、ほっとします」
「先生」
「はい」
「私、今日ここに来るまでは、たぶん答えをひとついただいて帰るんだろうなって思っていました」
「ええ」
「『こうしたほうがいいですよ』とか、『ご主人にこう言ってみてください』とか」
「ええ」
「でも、今日先生は何も、おっしゃらなかったんですね」
川口さんは、ふっと笑った。
「それが、いちばん、よかったです」
——
私は立ち止まって、川口さんを見た。
「川口さん」
「はい」
「『夫婦って何ですか』というご質問に、私が答えられることは、ひとつもないんです」
川口さんが、頷いた。
「夫婦の形ってたぶん、世間が決めるものでも私が決めるものでもなくて」
私は少しだけ目を細めた。
「そのお家の中にいるお二人にしか、決められないものなんですよ。だから今日、川口さんがお一人で考えていただいたことのほうが、私が何かを差し上げるよりずっと、確かなものになります」
「先生」
川口さんが、ふっと、小さく頭を下げた。
その目には、来たときよりも、確かな光があった。
「ありがとうございます」
——
貴船口駅まで、バスで一緒に下りた。
山道を下りるあいだ、二人とも多くは話さなかった。今日、川口さんが川床のうえで自分の手で形にしたものを、これ以上の言葉で揺らさないほうがいい——それは、二人のあいだにいつのまにか置かれていた、約束のようなものだった。
ホームで、川口さんは京都駅で乗り換える新幹線の時間を、スマホで確かめていた。指先がすこしだけ慣れない動きをするのは、来るときの緊張がまだ完全には抜けきっていないということなのだろう。
「先生は、これから、どちらに」 「私は、市内の自宅に、まっすぐ戻ります」 「そうですか」
短く返したその声に、ほんの少しだけ、別れを惜しむような響きがあった。けれど川口さんは、それをすぐに自分のうちがわに仕舞って、また姿勢を整えた。
電車が、ゆっくりとホームに滑り込んできた。
「川口さん」
「はい」
「東京に着かれて、ご自宅で、ご主人とお会いになると思うんですけれど」
「はい」
「今日、ここで決められたことを急いでご主人に伝えなくて、いいんですよ」
「と、言いますと」
「ご自分の中で決められたことは、ご自分の中にしばらく置いておかれて、大丈夫です。これから川口さんが少しずつ行動でそれを示していかれれば、それで」
川口さんが、ゆっくりと頷いた。
「はい」
「お母さま、お大事に」
「ありがとうございます」
電車のドアが閉まる前に、川口さんはこちらを向いてもう一度、頭を下げた。
私も頭を下げ返した。窓ガラスの向こうで、川口さんは席に着いた。こちらに視線を残したまま、けれど目までは合わせずに、ふっと前を向いた。何かに区切りをつけるときの、長くものを考えてきた人の所作だった。
——
電車が坂を下って見えなくなってから、私はしばらくホームに立っていた。
——
市内行きの叡山電車に乗り換えて、出町柳で降りる。
日が京都の街の屋根を、橙に染めはじめていた。家まで地下鉄を乗り継いで、四十分ほどかかる。電車の窓から鴨川を渡る瞬間、川面が夕日で帯のように光るのが、ひと呼吸だけ見えた。
——
自宅の玄関の明かりを点けたのは、午後の七時を少し回った頃だった。
鞄を廊下の脇に置いた。靴を脱ぎながら、川口さんの今日のことを、ひとつふたつと思い返していた。
「ただいま」
家の中には、誰もいない。それでも私は「ただいま」と声に出すのが、長いあいだの癖になっていた。誰もいない部屋にその挨拶をひとつ置いておくだけで、家の空気がほんの少し緩む気がする。
廊下の明かりだけ点けたまま、私は玄関の上がり框に、しばらく腰を下ろした。
——
「夫婦って、なんなんでしょうか」
今日のはじめに、川口さんはそう聞いてくださった。
私はその問いに、最後まで答えなかった。答えなかったというよりは、答えてはいけない問いだったのだと思う。
夫婦の形を決められるのは、そのお家のなかにいる二人だけである。私のような外側の人間が、答えを差し出せる場所ではない。
——川口さんが、ご自分の中にすでに持っていらした答えを、ご自分のお口で言葉にされた今日。それで、よかったのだと思う。
——
立ち上がって、台所のほうへ向かった。
冷蔵庫を開けると、昨日の残りのお出汁が、小さな鍋ごと冷えていた。明日の朝、お味噌汁にするつもりで、取っておいたものだった。
家の中は、しんとしていた。
その静けさのなかに、川口さんがいま、東京の電車のなかで、窓の外を流れる景色をどんなふうに見ているのか——その後ろ姿だけが、ふっと思い浮かんだ。
何も解決はしていない。
明日からの川口さんの暮らしは、たぶん今日までとほとんど変わらない。母の介護は続くし、ご主人の態度もすぐには変わらないだろう。
それでも、川口さんの中には今日、何かがすこしだけ動いた。
その「すこし」がこれから先、川口さんの中でどんなふうに育っていくのか——それは、川口さんご自身しか知らないことだった。
——
私はお湯を沸かして、自分のために薄いお茶を一杯だけ淹れた。
湯呑みから、ひと筋、湯気が立ちのぼっていた。
その白さが、台所のガラスにふっと当たって、消えた。窓の向こうの空は、まだ昼の青をどこかに残していた。








