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夫に期待するのをやめます ④

本作のあらすじ

「夫婦なのに、私はずっと、孤独でした」——

東京の郊外から京都まで、ひとりの女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。

母の介護、フルタイムの仕事、そして夫の無関心。「介護はお前の家族の問題だろ」と言い放った夫の言葉が、二十年近い結婚生活のなかに張りつめてきた孤独を、ついに表に引きずり出した。

夫婦という形のなかで、ひとり立ち尽くしてきた女性に、たま先生は何を返すのだろうか——

→ 第1話から読む

「この人は、私の家族ではないんだな、って」

そう言いきった川口さんを、私は何も言わずに見ていた。

——

私は、すぐには返事をしなかった。

ここで何かを返してしまえば、川口さんがいま自分の中でようやく形にしようとしているものを、外からの言葉で上書きしてしまうことになる。

代わりに、私は湯呑みを置いて、川面のほうへ顔を向けた。

夕方の光が、水のうえで細かく折り返している。簾の隙間から差し込んで、川口さんの膝のあたりにも、小さな光の粒が落ちていた。

——

しばらく、二人とも何も言わなかった。

川口さんは、私の沈黙を辛抱してくださった。

普通なら、ここで「先生、何か、言ってください」と、こちらに答えを求めたくなる場面である。けれど川口さんは、何も言わずに、ただ自分の湯呑みを見つめていた。長く、沈黙に慣れてきた人の姿だった。

——お一人でこの時間を、何度も持ってこられたのだろう。

私はそう思った。

——

どれくらい経っただろうか。

川口さんが自分のほうから、口を開いた。

「先生」

「はい」

「私、前から、わかっていたのかもしれません」

「ええ」

「夫が、私の母のことをそんなに大事に思っていないことは、たぶんずっと前から感じていました。だから、頼ることもしなかったし、頼っても無駄だろうって、最初から思っていました」

「ええ」

「でも、口に出してはっきり『お前の家族の問題』って言われたとき、はじめて、ああ本当にそうなんだって思ったんです」

川口さんが、小さく息を吐いた。

「ずっと心のどこかで、いつかは夫が私の母のことを、自分の母みたいに思ってくれる日が来るんじゃないかって、期待していたのかもしれません」

「ええ」

「でも、その期待はたぶんもう、置いていい期待なんですね」

——

私は、頷いた。

「川口さん」

「はい」

「いま、川口さんがご自分でたどり着かれた、そのお気持ちのところに、私は何も足しません」

川口さんが、こちらを見た。

「ええ」

「私から『そうですね』とも、『そんなことないですよ』とも申し上げません。今日のここの結論は、川口さんの中にあるものそのままで、もうできあがりつつあるからです」

川口さんはしばらくのあいだ、私の言葉を自分のなかで噛んでいた。

それから、ひと呼吸かけて、こう言った。

「先生」

「はい」

「私、別れるって決めたわけではないんです」

「ええ」

「今すぐ離婚したいとか、そういうことでもないんです。母の介護はまだ続きます。私の仕事も、ローンも、住んでいる家のことも、いろいろあります。夫が生活のうえで、まったく必要ない人かというと、そうでもないんです」

「ええ」

「ただ」

——

川口さんが、川面のほうを見た。

「ただ、これから先、私は夫に、いままでと同じものを期待するのは、もうやめようと思います」

「はい」

「私の母のことを、夫の家族として扱ってもらおうとすることも、もうしません。夫がしないなら、しないで、私が私のやり方で母を看取るところまでやります」

「ええ」

「夫婦って、こういうことなのかなって、いますこし、わかりました」

「川口さんにとって、それは」

「諦めではなくて、片付けです」

川口さんがはじめて、強い言葉を使った。

声を荒げてはいない。けれどその「片付け」という言葉には、二十年分の何かを自分の手でひとつずつ仕分けてきた人の、しずかな決意が滲んでいた。

——

「先生」

「はい」

「私、夫にもう、何かを期待しないって決めたら、なんだか肩の荷がふっと下りた気がするんです」

「ええ」

「期待することって、こんなに、重かったんですね」

私は、ゆっくりと頷いた。

「期待を手放すって、よく、冷たい言葉のように扱われますけど」

私は、自分のお茶をひとくち含んだ。

「川口さんがいまなさろうとしているのは、たぶん冷たい『手放し』ではないですよ」

「と、言うと」

「『私のいのちを、もうこれ以上ご主人の答えに預けない』ということです」

川口さんが、私を見た。

少しの間があってから、彼女は、こう言った。

「ああ、そうかもしれません」

——

風が、もう一度、新緑をゆらした。

川口さんは湯呑みのお茶を、最後まで飲み干した。

それから、お盆の上のお皿の縁を、指先でそっと整えた。終わりの仕草だった。

「すこし、外を歩いてもいいですか」

「ええ。出ましょうか」

私たちは、靴を履いて、川床の店を出た。

外の空気はほんの少しだけ、夕方の冷たさを帯び始めていた。

本作「夫に期待するのをやめます」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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