本作のあらすじ
「夫婦なのに、私はずっと、孤独でした」——
東京の郊外から京都まで、ひとりの女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
母の介護、フルタイムの仕事、そして夫の無関心。「介護はお前の家族の問題だろ」と言い放った夫の言葉が、二十年近い結婚生活のなかに張りつめてきた孤独を、ついに表に引きずり出した。
夫婦という形のなかで、ひとり立ち尽くしてきた女性に、たま先生は何を返すのだろうか——
「この人は、私の家族ではないんだな、って」
そう言いきった川口さんを、私は何も言わずに見ていた。
——
私は、すぐには返事をしなかった。
ここで何かを返してしまえば、川口さんがいま自分の中でようやく形にしようとしているものを、外からの言葉で上書きしてしまうことになる。
代わりに、私は湯呑みを置いて、川面のほうへ顔を向けた。
夕方の光が、水のうえで細かく折り返している。簾の隙間から差し込んで、川口さんの膝のあたりにも、小さな光の粒が落ちていた。
——
しばらく、二人とも何も言わなかった。
川口さんは、私の沈黙を辛抱してくださった。
普通なら、ここで「先生、何か、言ってください」と、こちらに答えを求めたくなる場面である。けれど川口さんは、何も言わずに、ただ自分の湯呑みを見つめていた。長く、沈黙に慣れてきた人の姿だった。
——お一人でこの時間を、何度も持ってこられたのだろう。
私はそう思った。
——
どれくらい経っただろうか。
川口さんが自分のほうから、口を開いた。
「先生」
「はい」
「私、前から、わかっていたのかもしれません」
「ええ」
「夫が、私の母のことをそんなに大事に思っていないことは、たぶんずっと前から感じていました。だから、頼ることもしなかったし、頼っても無駄だろうって、最初から思っていました」
「ええ」
「でも、口に出してはっきり『お前の家族の問題』って言われたとき、はじめて、ああ本当にそうなんだって思ったんです」
川口さんが、小さく息を吐いた。
「ずっと心のどこかで、いつかは夫が私の母のことを、自分の母みたいに思ってくれる日が来るんじゃないかって、期待していたのかもしれません」
「ええ」
「でも、その期待はたぶんもう、置いていい期待なんですね」
——
私は、頷いた。
「川口さん」
「はい」
「いま、川口さんがご自分でたどり着かれた、そのお気持ちのところに、私は何も足しません」
川口さんが、こちらを見た。
「ええ」
「私から『そうですね』とも、『そんなことないですよ』とも申し上げません。今日のここの結論は、川口さんの中にあるものそのままで、もうできあがりつつあるからです」
川口さんはしばらくのあいだ、私の言葉を自分のなかで噛んでいた。
それから、ひと呼吸かけて、こう言った。
「先生」
「はい」
「私、別れるって決めたわけではないんです」
「ええ」
「今すぐ離婚したいとか、そういうことでもないんです。母の介護はまだ続きます。私の仕事も、ローンも、住んでいる家のことも、いろいろあります。夫が生活のうえで、まったく必要ない人かというと、そうでもないんです」
「ええ」
「ただ」
——
川口さんが、川面のほうを見た。
「ただ、これから先、私は夫に、いままでと同じものを期待するのは、もうやめようと思います」
「はい」
「私の母のことを、夫の家族として扱ってもらおうとすることも、もうしません。夫がしないなら、しないで、私が私のやり方で母を看取るところまでやります」
「ええ」
「夫婦って、こういうことなのかなって、いますこし、わかりました」
「川口さんにとって、それは」
「諦めではなくて、片付けです」
川口さんがはじめて、強い言葉を使った。
声を荒げてはいない。けれどその「片付け」という言葉には、二十年分の何かを自分の手でひとつずつ仕分けてきた人の、しずかな決意が滲んでいた。
——
「先生」
「はい」
「私、夫にもう、何かを期待しないって決めたら、なんだか肩の荷がふっと下りた気がするんです」
「ええ」
「期待することって、こんなに、重かったんですね」
私は、ゆっくりと頷いた。
「期待を手放すって、よく、冷たい言葉のように扱われますけど」
私は、自分のお茶をひとくち含んだ。
「川口さんがいまなさろうとしているのは、たぶん冷たい『手放し』ではないですよ」
「と、言うと」
「『私のいのちを、もうこれ以上ご主人の答えに預けない』ということです」
川口さんが、私を見た。
少しの間があってから、彼女は、こう言った。
「ああ、そうかもしれません」
——
風が、もう一度、新緑をゆらした。
川口さんは湯呑みのお茶を、最後まで飲み干した。
それから、お盆の上のお皿の縁を、指先でそっと整えた。終わりの仕草だった。
「すこし、外を歩いてもいいですか」
「ええ。出ましょうか」
私たちは、靴を履いて、川床の店を出た。
外の空気はほんの少しだけ、夕方の冷たさを帯び始めていた。








