息が詰まるダイニングと、冷え切った味噌汁
カチャ、カチャ。
食器がぶつかる無機質な音だけが、静まり返ったダイニングに響く。
目の前に座る夫は、眉間にシワを寄せながらスマホの画面を睨みつけ、無言で夕飯を口に運んでいる。
彼が放つピリピリとした空気に、私は自分の味噌汁の味が全く分からないまま、ただ息を潜めるように箸を動かしていた。
結婚して20年。仕事ができて真面目で、酒もギャンブルもしない夫。世間から見れば「いい旦那さん」なのだろう。
けれど、私にとってこの家は、酸素の薄い密室も同然だった。
思い出すだけで胃がキリキリと痛む。少し前の外食でのこと。
店員の些細なオーダーミスに対し、夫は「正論」を武器に理詰めで激怒した。店長を呼びつけ、後日わざわざ自宅まで謝罪に来させるという執拗さ。
怯える店員と、凍りつく子供たちの顔。
せっかくの家族の団欒は、いつも彼の一方的な怒りによって無惨にぶち壊されてきた。
「そこまで怒らなくても……」と私が少しでも意見しようものなら、火の粉は私に向かってくる。
だから私は、波風を立てないよう、ただ感情を殺してやり過ごす術だけを身につけてしまった。
透明な檻に閉じ込められた私
子供たちも大学生になり、子育てもいよいよ終盤に差し掛かった。
ふと、「この先、夫と二人きりの老後」を想像して、背筋に冷たいものが走った。
無理だ。
同じ空間にいるだけで息が詰まるのに、あと何十年もこの人と向き合うなんて、絶対に耐えられない。
夫婦関係をやり直したいという情すら、とうの昔に枯れ果てている。
だったら、離婚すればいい。
頭では分かっているのに、私はいつもそこで立ちすくんでしまう。 私には、一人で生きていけるだけの収入がないからだ。
ずっと家庭を優先し、夫の顔色をうかがいながら、扶養の範囲内でスーパーのパートをしてきた。通帳の残高を見るたびに、見えない透明な檻に閉じ込められているような絶望感に襲われる。
昔、夫が突然独立すると言い出して私の貯金まで食いつぶしたこともあったのに、どうして私は自分のために備えてこなかったのだろう。
私が夫としっかり向き合ってこなかったから、こんな惨めな思いをしているの?
シンクに溜まった洗い物を見つめながら、涙がぽろぽろと零れ落ちた。私の人生の「幸せ」って、一体何だったんだろう。
夜更けのふてぶてしい訪問者と、隠し持つジョーカー
ずいぶんとし気気臭い顔して皿を洗ってるニャ。そんなに泣いたら、水道代の無駄だニャ
突然、背後から声がした。
驚いて振り返ると、勝手口の小窓の桟に、ずんぐりとした太めの猫が香箱座りをしていた。ふてぶてしい顔つきで、こちらを呆れたように見下ろしている。
「えっ……猫?喋った……?」
「オレはフクだニャ。お前、さっきから『お金がない』『私が悪い』って、自分で自分を呪ってどうするニャ。人間ってのは、わざわざ窮屈な箱に入りたがるから理解できないニャ」
幻覚でも見ているのだろうか。混乱する私をよそに、フクは長いしっぽをパタンと揺らした。
「あのね、私には一人で生きる力がないの。パートの収入じゃ家も借りられない。だから、この息の詰まる家で一生我慢するしか……」
「金がないなら、稼ぐ準備をすればいいだけニャ。」
フクの金色の瞳が、私の目を真っ直ぐに射抜いた。
「いいかニャ?『離婚できない』って思い込んでるから、あの男の顔色にビクビクするハメになるんだニャ。だったら、『いつでも離婚できる』ってカードを自分で作ればいいのニャ」
「カード……?」
「そうだニャ。パートの時間を少し延ばして、自分の財布を厚くするニャ。年金分割の仕組みや、財産分与についてこっそり調べておくのもいいニャ。実際に離婚するかどうかは後回しでいい。『いざとなれば逃げられる』っていうジョーカーを袖口に隠し持っているだけで、人間の心はずっと強くなるんだニャ。」
フクの言葉が、乾ききった心にスッと染み込んでいく。
「自分の人生のハンドルを、いつまで他人に握らせておくつもりニャ?自分の機嫌は自分で取る。自分の人生は自分で生きる。それが一番の幸せってもんだニャ」
フクはそう言うと、「あーあ、腹減ったニャ」と大きなあくびをして、夜の闇の中へひらりと飛び去っていった。
檻の鍵は、私の手の中にあった
「……そうか。今すぐ決めなくたって、いいんだ」
ぽつりと呟いた言葉は、驚くほど軽かった。
私は「離婚するか、一生我慢するか」の極端な二択しか見えていなかった。
でも、フクの言う通りだ。まずは自分の足で立つ準備を始めればいい。
夫に隠れて、少しずつパートのシフトを増やしてみよう。市役所の無料法律相談に行ってみるのもいいかもしれない。
「いつでも捨ててやる」
そう心の中で唱えてみると、不思議と夫の威圧感が少しだけちっぽけに思えた。
袖口に隠し持った見えないジョーカーのおかげで、私の世界はもう、彼に支配された密室ではない。
明日は、パートの店長にシフトの増枠を相談してみよう。久しぶりに、明日が来るのが少しだけ楽しみになった。
登場人物紹介:フク
おう、俺の名前は「フク」だニャ。
たまお悩み相談室のWEB小説に、気まぐれでふらりと現れる猫だニャ。
ちょっと太めでふてぶてしい顔? うるさいニャ、これが俺のベスト・フォルムなんだから放っておけニャ。
俺の生き方は究極の「自分ファースト」だニャ。
美味しいおやつをもらった時しか喉は鳴らさないし、愛想笑いなんて絶対にしない。人間の社会にある「こうあるべき」とか「いい妻・いいお母さんでいなきゃ」なんていう謎のルール、俺たち猫には一切関係ないニャ。
なんで俺がアンタの前に現れるかって?
他人の顔色ばっかり伺って、自分を押し殺してボロボロになってる人間を見ると、なんだか見ててイライラするからだニャ。「自己犠牲」なんていう重たいもん背負ってるアンタに、俺が身も蓋もないツッコミを入れてやるニャ。
人間ってほんと、面倒くさい生き物だニャ。
嫌な時は噛む、寝たい時は寝る。それで嫌われるなら上等だニャ。アンタも俺みたいに、ガチガチに固まった肩の力を抜いて、もうちょっとワガママに生きてみろニャ🐾








