洗面所の鏡に映る私と、夫の怪訝な顔
洗面所の鏡の前で、私はそっとニット帽を深く被り直した。鏡の中にいるのは、抗がん剤治療の影響ですっかり髪を失った50代の私。
昨年度、がんの手術と過酷な治療を乗り越え、ようやく経過観察までたどり着いた。今は大好きな小学校の教壇に戻るため、少しずつ体力を戻すリハビリの日々を送っている。
子どもたちに「わかる授業」を届けること。それが私の教員人生のすべてであり、病気を乗り越えるための大きなモチベーションだった。
だからこそ、復帰後の姿について、私の中には明確なプランがあった。
体育の授業中にウィッグのズレを気にして、子どもたちから意識が逸れるのだけは絶対に嫌だった。だから、最初から正直に伝えようと思っていた。
「病気のお薬で髪が抜けたから、生えるまでは帽子で過ごすね。髪がなくても、みんなのことが大好きだよ。一緒に頑張ろうね」と。
明るく笑ってそう伝えれば、子どもたちはきっと真っ直ぐに受け止めてくれる。そう信じていた。
しかし、夕食の片付けをしている時、夫にその計画を話すと、予想外の反応が返ってきた。
「子どもは良くても、親から変な目で見られるかもしれないだろ? 無難にウィッグにしたらどうだ?」
夫の怪訝そうな顔と、突き放すような言葉が、私の心に冷たい水を浴びせた。
「先生」としてのプライドと、社会の目への恐怖
夫の言葉を聞いてからというもの、私の心は重く沈んでいた。 確かに、保護者の中には病気や見た目の変化に対して敏感な人もいるかもしれない。
「あんな先生で大丈夫なのか」「子どもに悪影響はないのか」と陰口を叩かれたらどうしよう。
スマホで『教員 がん復帰 クレーム』なんて検索しては、見えない「親の目」に怯える自分がいた。
私が選ぼうとしている道は、ただの自己満足なのだろうか。
波風を立てないよう、蒸れても痒くても、無理をしてウィッグを被り続けるのが「大人の対応」であり、「プロの教師」としての正解なのかもしれない。
誰もいない静かなリビングで深くため息をつき、手元のウィッグを見つめる。きれいにセットされた人工の髪は、私を病気から守ってくれる盾のようにも、自分らしさを押し殺す檻のようにも見えた。
心細くて、誰かに「あなたの考えは間違っていないよ」と背中を押してほしくてたまらなかった。
ありのままの姿が、一番の「生きる授業」になる
迷いの中で、ふと窓の外を見ると、通学路を元気いっぱいに走っていく小学生たちの姿が見えた。あの子たちに、私は何を教えたいのだろう。
その時、胸の奥底で小さな、けれど確かな声が響いた。 誰だって、いつ病気になったり事故に遭ったりして、当たり前の生活ができなくなるか分からない。それは決して恥ずかしいことでも、隠すべきことでもないはずだ。
夫はきっと、私が保護者から心無い言葉を浴びて傷つくのを心配してくれたのだろう。その優しさには感謝している。でも、だからといって自分を偽る必要はない。
病気になっても、髪がなくても、一生懸命に仕事をして元気に生きている。その姿をありのままに見せること自体が、子どもたちへの何よりの「生きる授業」になるのではないか。
そう気づいた瞬間、胸のつかえがスッと下りていくのを感じた。 正解なんて一つじゃない。でも、私は私の信念を信じてみよう。
明日、もう少しだけ自分の考えに自信を持って、誰かにこの決意を聞いてもらおう。そうすればきっと、迷いなく子どもたちの前に立てる気がする。
私はウィッグをそっと箱にしまい、お気に入りの帽子をもう一度、鏡の前で被ってみた。








