本作のあらすじ
「私、彼とレスなんです」——
五十代の女性が、京都の西陣まで「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
付き合って八ヶ月の、十二歳下の彼。最初の三ヶ月はあったのに、ここのところはずっと、手をつなぐところで止まっている。それでも彼は毎週、会いに来てくれる。私の魅力が、もうなくなったのでしょうか——その問いを抱えて、彼女は町家の坪庭が見える奥の席に腰を下ろす。
夕日が坪庭の苔を染めるころ、たま先生はその問いに、どんな笑顔を返すのだろうか——
「先生」
しばらくの沈黙のあとで、白石さんが口を開いた。
その声から、ここまでの軽さがすこしだけ抜けていた。
「私、自分でもばかみたいだなって思うんですけれど」
「ええ」
「鏡を見るのが、最近、こわいんです」
——
私は、白石さんの目をまっすぐに見た。
「鏡が」
「はい」
白石さんは、自分の手のひらを、自分の頬の少し下のあたりに当てた。
「朝、お化粧の前に、洗面所の鏡を見るじゃないですか」
「ええ」
「彼に会う日のお化粧の前に自分の素のお肌を見るのが、半年くらい前からだんだんしんどくなってきました」
「ええ」
「目元の、ここのところがすこし下がっていて。ほうれい線も、夜のお風呂上がりとお昼で、たぶん長さが違うんですよ」
そう言って、白石さんは小さく笑った。
けれどその笑いの先に、ふっと言葉が止まった。笑いと泣きのちょうど境目のところで、声が宙吊りになった。
——
「彼は、私の四十代の写真を、見たことがないんです」
白石さんは、自分のお茶の表面を見つめたまま言った。
「私の三十代も、二十代も、彼は知らない」
「ええ」
「彼が知っているのは、五十を過ぎてからの、いまの私だけ。本当はそれで十分なはずなのに、私のなかで過去の私が現在の私の隣にずっと立っていて」
「ええ」
「『その頃の私のほうが、よかったよ』って、自分で自分に言い続けているんです」
「……」
「そんな声を彼にぶつけたわけじゃないのに、私のお部屋のなかで、その声がずっとしていて」
私は、何も挟まずに、ただ聞いていた。
——
町家の格子の向こうで、近所の方の声がした。
「ほな、また明日な」
「お疲れさま」
ちょっとしたやりとりが、夕方の路地のなかでひと往復して、すぐに途切れていった。
その短いやりとりの遠さと近さが、私たちが座っているこの坪庭付きの席に、ふわりと余韻だけを残した。
「彼が来てくれるのは、毎週、土曜日です」
白石さんが続けた。
「ええ」
「お昼ごろに迎えに来てくれて、車でドライブしたり、お夕飯やカラオケに一緒に行くこともあります」
「ええ」
「夜中まで一緒にいて、明け方に私の家まで送ってくれて、玄関のところで軽くだけキスをして帰っていきます」
——
「その『軽くだけ』が」
白石さんの声のトーンが、ひとつ、低くなった。
「いつも、私のなかにポツン、と落ちて残ります」
「ええ」
「彼が手をはなしたあと、自分の玄関の鍵を回す瞬間に、ふっとつまんないって思うんです」
「ええ」
「彼が悪いわけじゃないんです。私だってもう五十を過ぎて夜中までドライブして、それでも次の日はちゃんと仕事に行かなきゃいけない暮らしなんですから。本当はその『軽くだけ』がいちばん優しい距離なのかもしれません」
「ええ」
「でも、つまんない」
そう言って、白石さんはまた笑った。
——
笑った声の最後のところで、白石さんは、ゆっくり長く息を吐いた。
その息のかたちを、私は静かに胸の中で受けとめた。
「先生」
「はい」
「私、ここまで話してきて、自分でちょっとびっくりしているんです」
「ええ」
「『私の魅力がなくなったのか』って、ここに来るまではそれが私のいちばんの問いだと思っていました」
「ええ」
「でもいま話してみたら、そこじゃないかもしれないってだんだんわかってきています」
——
白石さんは、自分のカップの取っ手をそっと指でなぞった。
それから一度、坪庭のほうへ視線をやった。
苔のうえに、夕方の橙色の光が斜めに差していた。屋根の影が少しずつ伸びて、その光と影の境目がゆっくり、坪庭の真ん中の手水鉢のあたりまで進んでいた。
「私のいちばんの問いは、たぶん」
白石さんは、ひと呼吸置いた。
「『私の魅力がなくなったのか』ではなくて」
「ええ」
「『私は、自分の魅力を、自分でちゃんと信じてあげられないのか』のほうかもしれません」
——
私は、ゆっくり、ゆっくり頷いた。
何度も頷くというよりは、白石さんが自分の口で出してくださったその問いが、坪庭のなかにきちんと座るのを待つような頷き方だった。
「白石さん」
「はい」
「いま、ご自分でとても大事なところに触れていらっしゃいますね」
「触れていますか」
「ええ。私からも一つ、お伺いしてもよろしいですか」
「もちろんです」
——
私は、自分のカップを少しだけ、両手で包むように添えた。
カップの温度は、そろそろ手のひらに馴染む温度になっていた。
「彼に対して『私の魅力を認めてほしい』というお気持ちが」
「はい」
「その気持ちと、彼の『プレッシャーを感じる』という言葉と」
「はい」
「白石さんのなかで、ちょっとだけ、ぶつかっていらっしゃいませんか」
——
白石さんは、しばらく、答えなかった。
夕方の光は、坪庭のいちばん低い苔のあたりまで降りてきていた。風が、青もみじの葉先を、ほんのわずかにゆらした。
「ぶつかってる、と思います」
ようやく、白石さんが言った。
「私、彼に私の魅力を認めてほしくて、それで彼にその時間を求めていたところがあったということですよね」
「ええ。それも、あったかもしれませんね」
「そうかぁ」
白石さんは、長い長い、息を吐いた。
その息は、夕方の坪庭の空気とゆっくり混ざって、屋根の影のなかへと薄れていった。








