本作のあらすじ
「もう、大丈夫です」——
関西のある街から京都の嵐山まで、二十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
数年間の片想いの末に、突然連絡先をブロックされた。彼に認められたいと願ってきた自分の正体に、彼女はようやく気づきはじめている。それでも夕方になるたびに、胸の奥で小さく崩れていく音が止まない。
梅雨晴れ間の渡月橋のたもとで、たま先生はその人にどんな時間を返すのだろうか——
中川さんは、ショールの端で、一度だけ目元を軽く拭った。
それから深く、ひと呼吸息を吸った。吸い終えて、ゆっくり吐いた。その吐き方は、ベンチに座られた最初のころよりもずっと長く静かなものだった。
夕方の光は、いま、川の中州のさきの欅のあたりにまで届いていた。橋を渡る人の数は、さきほどよりも少し増えている。空の色は、まだ夜のほうへは傾ききっていなくて、橙のなかにかすかな青を残していた。
「先生」
「はい」
「明日からのこと、ちょっと、お話してもいいですか」
「もちろんです」
中川さんは、自分のスマホを膝のうえに置かれた。
ロック画面は伏せたままで、ご自分のほうへ画面を起こさずに、ただ手のひらに端末を持ち直すようにしておられた。
——
「私、今日ここに来る前に、ひとつ決めてきたことがあるんです」
「ええ」
「彼のことを忘れるための行動じゃなくて、自分を認めるための行動のリストを、つくろうって」
「ええ」
「その『認める』っていう言葉が、自分のなかでうまく形にならなかったから、先生にも会いに来たかったんですけど」
「ええ」
「いま、なんとなく、ふっと見えてきました」
「ええ」
——
中川さんは、すこし笑った。
「すごく、小さいことばっかりなんですけど、いいですか」
「ええ。むしろ、小さいことのほうがいいんですよ」
「まずひとつ目は、朝起きてお味噌汁をちゃんと自分のためにつくることです」
「ええ」
「ここのところ、朝はコンビニのおにぎりとかお水だけで済ませちゃってて」
「ええ」
「お味噌汁って、お湯沸かしてお出汁とってお味噌溶くじゃないですか」
「ええ」
「それを、自分のためだけに、ちゃんとやってあげようかなって」
——
私は、ゆっくりとうなずいた。
「ふたつ目は」
「ええ」
「お仕事で、ちっちゃいことでも自分が頑張ったなって思ったら、その日のうちにノートに一行だけ書いてみることです」
「ええ」
「『今日は、こういうところで頑張った』って自分に向かって書く感じで」
「ええ」
「彼のことを考えてた時間を、そっちに、すこしずつ動かしていきたくて」
中川さんは、自分のスマホをいったんバッグに戻された。それから、両手を膝のうえに、もう一度そろえた。
——
「みっつ目は」
「ええ」
「これは、まだ、できる自信がないんですけど」
「ええ」
「夕方になって胸のあたりがうっすら虚しくなったときに、その気持ちをすぐ消そうとしないことです」
「ええ」
「いままでの私は、虚しくなったらすぐSNSとか開いて、画面のあかりで自分の気持ちを見ないようにしていたんですけど」
「ええ」
「夕方の三十分くらい、その気持ちと、いっしょにいてみる時間にしようかなって」
——
中川さんは、自分の言葉に、すこし照れたように笑った。
「言葉にしてみると、なんかかっこつけてる感じがして、恥ずかしいですね」
「いえいえ。中川さんがご自分の手で毎日のなかにこの三つを置こうとされている、そのこと自体がもうすごく大きいことなんですよ」
「先生」
「はい」
「いまの自分で、もう、十分なんですよね」
「ええ。いまのご自分のままで、もう、十分です」
「でもその十分なご自分がお味噌汁を作ったりノートに書いたりする時間っていうのは、誇りを増やすためじゃなくて、いまの十分な自分をちゃんと抱えていくためのものなんですよね」
——
中川さんはご自分の言葉をもう一度、ご自分のなかで確かめるようにゆっくり並べておられた。
ご自分の口のかたちのほうへその言葉が馴染んでいくのを、私は隣で静かに待った。
「先生に、会えてよかったです」
「ええ」
「私、ここにくるまでは誰かにこの三つを言ってちゃんとしたねって褒められて、それで安心したかったんだと思うんです」
「ええ」
「でも、いまは、すこし違って」
「ええ」
「先生に褒められようがなかろうが、これを明日からやってみたいなって、ふっと思いました」
「それは、いちばん、強いかたちですね」
——
中川さんは、もう一度笑った。
その笑い方には、ベンチに座られた最初のころのあの「もう大丈夫です」の笑いとは、すこし違う色があった。ご自分のためにご自分のなかから出てきたものを、ご自分の手のひらにそっと置けた人の、そういう柔らかい笑い方だった。
「先生」
「はい」
「もうひとつだけ、付け足しても、いいですか」
「ええ、もちろん」
「夕方の三十分のあいだに、もしたま先生にお手紙を書きたくなったら、書いてもいいですか」
中川さんは、すこし照れて、自分のひざのあたりをふっと見た。
「お返事は、しなくていいんです。ただ書きたくなったときに書く先が、いまの私にはいてくださると嬉しくて」
「もちろんですよ」
私はゆっくり頷いた。
「お手紙、待っていますね」
夕方の光は、いま、橋の欄干のあたりまで降りてきていた。
中川さんの肩のうえに、その光が、ふっと薄く乗っていた。








