本作のあらすじ
「気にしないようにしてもらえないですか」——
大学のスポーツ推薦で、四月から関西の大学に進学した十代の女性。春休みからすでに部の練習に参加して、その早さがかえって、先輩たちの陰口の入口になってしまった。
夕立があがったばかりの鴨川の河原のベンチで、彼女はその萎縮を、はじめて誰かのまえに置こうとしている。
空がゆっくり晴れていく夕方、たま先生はその年若い相談者に、何を返すのだろうか——
「私、高校のときはずっと部活ばっかりで」
紙コップを膝のうえにそっと置いて、浅井さんは話しはじめた。
「親が共働きで、家にいてもひとりだから、平日も土日もずっとコートにいたんです」
「ええ」
「練習が好きでした。試合で勝つことより、走り回ってるあいだが、いちばん楽でした」
「楽、というのは」
私は紙コップの麦茶を、ひとくち含んだ。
「家のことも、勉強のこともなんにも考えなくてよくて、ボールだけ追いかけてればよかったから」
浅井さんはそう言って、ふっと、川のほうを見た。
夕立のあとの川面は、雨で増えた水で、いつもより流れがすこし速い。流木が一本、上流のほうから下ってくるのを、私たちは並んで目で追った。流木は橋脚のあたりで、ほんの一瞬だけ岸のほうへ近づいて、それからまた本流に戻っていった。
——
「結果も、出てたんです」
すこし置いてから、浅井さんが続けた。
「全国の予選で勝てて、そのあとこの大学の先生が試合を見に来てくれて、推薦の話をいただいたのが秋でした」
「うれしかったでしょうね」
「うれしかったです、すごく」
そう言いながら、浅井さんはご自分の言葉をいまもう一度確かめるように、小さくうなずいた。
「お母さんも、お父さんも喜んでくれて。それで合格が出たあと、二月の終わりにこっちに引っ越しました。三月からもう練習に呼ばれてたので」
「三月から」
「はい。新入生は四月入学なんですけど、推薦で来た子は春休みから入ってもいいよって監督に言われて。私、行きますって言ったんです」
「行きます、と」
「行きたかったんです、本当に」
その「本当に」は、浅井さんの胸のいちばん奥の場所からまっすぐ来た、ひとつの言葉だった。
——
私はうなずきながら、川面のひかりの帯を、また目で追った。
「ご自分の力で、ここまで来られたんですよね」
「はい」
「ご自分のお力で、ご自分の進む先を、ご自分で選んでいらしたんですね」
浅井さんはこくっと頷いて、けれどそのまま、しばらく何も言わなかった。
そのまま、何も言わない時間が、たぶん十秒ほど続いた。
その十秒のあいだに、空の青がさっきよりまた、ほんの少しだけ広がった。雲のかたちが、こちらから見ていてもわかるくらいに、ゆっくり東のほうへ動いていた。
——
「先生」
しばらくして、浅井さんが、声を低くした。
「春休みに、初めて練習に行った日のことなんですけど」
「ええ」
「先輩たちが、すごく、丁寧に迎えてくれたんです。きょうから一緒に頑張ろうね、って」
「ええ」
「だから私、嬉しくて。その日の練習、たぶんいちばん張り切ってやって」
「ええ」
「家に帰ってお母さんに電話して、すごくいい先輩たちだったよって、報告しました」
「ええ」
「でも、その三日後でした」
——
浅井さんは、紙コップの麦茶を、もうひとくちだけ口に含んだ。
「練習のあと、ロッカーに財布を取りに戻ったんです」
「はい」
「自販機に行こうと思って」
「はい」
「ロッカーの手前まで来て、なかから先輩二人の声が聞こえてきて」
「ええ」
「最初なに話してるのか分からなくて、足音を立てちゃ悪いかなと思って、ちょっと止まったんです」
——
私は、なにも口を挟まなかった。
紙コップを両手で包んだまま、ただ浅井さんのとなりで、川のほうを見ていた。
「『あの子、本当に高校の試合で結果出してたの?』」
浅井さんは、その先輩の声を、できるだけ感情を抜いて言おうとされた。けれどどうしても、語尾の高さがすこしだけ揺れた。
「『下手すぎやろ』」
「ええ」
「『監督なんで取ったんやろ』」
「ええ」
「もうひとりの先輩が、笑ってました」
「ええ」
——
私は紙コップの麦茶を、もうひとくちゆっくり含んだ。
「動けなくて、ロッカーの手前で、しばらく立ってました」
「ええ」
「結局、財布は取らずにもう一回フィールドに戻って、それから家に帰りました」
「ええ」
「家でその夜、お母さんにはなにも話せませんでした」
「ええ」
「お母さんがせっかく毎日応援してくれてるのに、その応援のうえにあんな話を乗せるのが、私できなくて」
——
夕方の風が、鴨川のうえをふっと撫でていった。
雨上がりの河原の風はすこし重たくて、けれどそのなかに夏の前のあたらしい空気のかたちが薄く混ざっていた。柳の細い枝先が私たちのベンチのうしろで、いっせいにそろって揺れた。
「次の日から、フィールドに立つのがこわくなりました」
浅井さんはそう言って、紙コップを膝のうえに置き直した。
絆創膏のはじっこが、麦茶の湯気ですこしだけ浮きはじめていた。それを浅井さんは、もう一方の親指で、そっと押さえ直された。








