本作のあらすじ
「気にしないようにしてもらえないですか」——
大学のスポーツ推薦で、四月から関西の大学に進学した十代の女性。春休みからすでに部の練習に参加して、その早さがかえって、先輩たちの陰口の入口になってしまった。
夕立があがったばかりの鴨川の河原のベンチで、彼女はその萎縮を、はじめて誰かのまえに置こうとしている。
空がゆっくり晴れていく夕方、たま先生はその年若い相談者に、何を返すのだろうか——
しばらく、浅井さんは何も言わなかった。
紙コップを両手で握ったまま、川のほうを見ていた。雨上がりの川面のうえに、夕方のひかりの帯がいつのまにか、五本も六本も並んでいた。橋の白いところはもう全部金色になっていて、川向こうの土手の柳のいちばん高いところまで青空がきれいに抜けていた。
——
「先生」
浅井さんが、ふっと、こちらを向いた。
声は、さっきまでのこわばったところが、すこし軽くなっていた。
「あした、練習なんです」
「ええ」
「朝の九時から、グラウンドに集合で」
「ええ」
「いまさっきまで、行きたくないなって、ほんとうに思ってました」
「ええ」
「でも、いま」
——
浅井さんは紙コップをベンチのうえに、こつんと置いた。
それから両手のひらを、ご自分の膝のうえに軽く並べた。手の甲の日焼けの色が夕方のひかりのなかで、薄くオレンジに染まった。
「やってみます」
その言葉を、浅井さんはまっすぐに置いた。
——
「先輩のことを気にしている時間を、ご自分のフィールドの時間に、置き換えていかれてくださいね」
「はい」
「すぐには切り替わらないかもしれませんよ。最初の何日かは、先輩のお声がまだ、頭のなかで再生されるかもしれません」
「ええ」
「それでも、フィールドのうえで足を動かしていらっしゃるあいだだけは、その回数がほんのすこし減るはずです。明日の朝はまず、その『ほんのすこし』を、ご自分でつかんでみてください」
「はい」
——
風が、ベンチのうしろの柳のあいだを、ふっと抜けていった。
枝先の濡れた葉が、いっせいにそろってまた揺れた。雨上がりの土の匂いはもう、ほとんど消えていた。代わりに、夕方のはじめのひんやりした空気と川の水のにおいだけが、私たちのまわりに残っていた。
「先生」
「はい」
「下手すぎ、って言われたこと」
「ええ」
「ほんとうは、すごく、悔しかったんです」
——
その言葉は、浅井さんが初めてご自分の感情のかたちを、まっすぐに置いた言葉だった。
「悔しい、と思っていらしたんですね」
「はい」
「それは、いい火種ですよ」
「火種」
「はい。悔しいって思えるということは、ご自分のなかにまだ、燃やせる場所がちゃんと残っているっていうことなんですよ」
——
浅井さんは、ふっと、目を細めた。
その目の細め方は十代の女性の、まだ若いけれどもうしっかりとした笑い方だった。
「先生」
「はい」
「私、ちゃんと、悔しがっていいんですね」
「もちろんですよ」
「悔しがって、そのぶんちゃんと、自分のために走ります」
——
私は、ゆっくりと、頷いた。
「あなたのフィールドで、お会いすることはできないけれど」
「はい」
「あした朝のグラウンドの白いラインのうえで、あなたが走り出されるところを、私はここから祈っていますね」
「ありがとうございます」
——
浅井さんは、ベンチから、ゆっくりと立ち上がった。
立ち上がりかたが、来たときよりもすこし軽く見えた。重心がつま先のほうに乗っている。十代のスポーツをしてきた方の、ふだんの立ち方が戻ってきていた。
「先生、今日は本当に、ありがとうございました」
「いいえ。よく、おいでくださいましたね」
「お母さんに、行ってきたよって、電話します」
「お母さま、お喜びでしょうね」
「はい」
——
浅井さんは、もう一度こちらに頭を下げて、河原の北のほうへ歩きはじめた。
ハーフパンツの裾の下から、ふくらはぎのまっすぐな線が、夕方のひかりのなかにくっきり見えた。歩き方には、もう来たときの遠慮がなかった。雨上がりの河原の砂利を軽くリズミカルに踏んで、橋のたもとのほうへすうっと歩いていった。
——
私はベンチに残って、しばらく、その背中を見送った。
橋の手前のところで、浅井さんはいちど、こちらを振り返った。
それから、軽く、片手を上げた。十代のお嬢さんらしい、ためらいのない手の上げ方だった。私もそれに頭を下げ返した。浅井さんは橋を渡って、向こう岸の街の灯りのなかへ消えていった。
——
雲が、もうほとんど東のほうへ流れきっていた。
頭の上の空は、夕方のいちばんきれいな青に戻っていた。雨上がりの空のほうがふつうの夕方の空よりも、青が深い。それを京都に長く住んでいる人は皆知っている。その深さのうえに、いま夕方のオレンジが薄く重なっていた。
——
ベンチの隣に、浅井さんの置いていかれた紙コップがふたつ並んでいた。
私はそれを両手で受けて立ち上がった。
「やってみます」
その短い言葉のかたちを、私は心のなかでもう一度なぞってみた。
「やります」と決めきった人より「やってみます」と一歩だけ踏み出された人のほうが、たぶん転んでもまた起きやすい。その選び方が、私にはまっすぐに思えた。
——
ベンチのうえに、夕方のひかりの帯がもう一本伸びてきた。
私はその金色をもうしばらく、ベンチのとなりに立って見ていた。空はもうほとんど晴れていた。雲の切れ目はだんだん、切れ目ではなく青のほうに変わっていた。
——
明日の朝、浅井さんはたぶんグラウンドの白いラインのうえに、もう一度立たれる。最初の一歩を踏み出される瞬間にあの先輩の声がまた再生されたとしても。あの方はその声に向かってではなく、ご自分のからだのほうへ耳を澄ませて足を出される。それで十分なのだ。
私はベンチを離れて、河原の北の道をゆっくり歩きはじめた。
紙コップが手のひらのなかで、こつんと鳴った。
頭の上の空はもう、夏の手前のいちばん青いところに戻っていた。








