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先輩に陰で笑われています ①

本作のあらすじ

「気にしないようにしてもらえないですか」——

大学のスポーツ推薦で、四月から関西の大学に進学した十代の女性。春休みからすでに部の練習に参加して、その早さがかえって、先輩たちの陰口の入口になってしまった。

夕立があがったばかりの鴨川の河原のベンチで、彼女はその萎縮を、はじめて誰かのまえに置こうとしている。

空がゆっくり晴れていく夕方、たま先生はその年若い相談者に、何を返すのだろうか——

夕立がさっき、ようやく上がったところだった。

鴨川の河原のうえに、雨のあとの土の匂いがふわっと立ちのぼっている。空は西のほうから少しずつ、青の色を取り戻しはじめていた。雲の切れ間から夕方のひかりが筋になって落ちてきて、川面のうえに、細い金色の帯をいくつか並べている。その帯はゆっくりと、流れに合わせてかたちを変えていった。

六月の終わりの、夕方の五時すぎ。

私はベンチのいちばん端に、傘を畳んで腰を下ろしていた。雨にうっすら濡れた板の表面が、肘のあたりまでひんやりと伝わってくる。雨上がりの河原は、ふだんよりも空気が薄くなった気がする。鼻の奥でほんの少しだけ、川と土と若い夏とが混ざった匂いがしていた。

ベンチのとなりに、小さくバッグを置いて、若い女の子がひとり座っていた。

——

浅井あさいさんという方だった。

メッセージをいただいたのは、ほんの十日ほど前のことである。「お母さんが先生のラジオをずっと聴いていて、私のことを心配して、先生のことを教えてくれました」と書かれていた。十代の方からのご相談は、これまでのご縁ではほとんど画面の向こうにもいらっしゃらなかった。Zoomを一度ご一緒したあとで、「もし可能なら、京都で直接お会いしてもいいですか」と続いた。

待ち合わせの場所は、私のほうから提案させていただいた。

喫茶店の向かい合った席は、たぶんあの方には少し近すぎる。屋根のないところで、川を見ながら同じ方向を向いて並ぶほうが、ご自分のお声を出していただけるのではないかと思った。三条のすこし南、川端通りからひとつ降りた河原のあたり。柳のあいだから、夕方の鴨川がきれいに見える場所だった。

夕立は、私が河原に着いてから十五分ほどして、ふいに落ちてきた。

ふたりとも畳んだ傘を脇に立てて、雨が上がるのをただ待っていた。雨脚はそれほど強くはなかったけれど、傘越しに肩のあたりが、すこし湿った。

——

「上がりましたね」

私がそう言うと、浅井さんは小さくうなずいた。

ショートカットの髪の先のほうに、まだ雨のしずくが二つ三つ残っている。それを浅井さんは、手のひらで軽くはらった。シンプルな紺のTシャツに、薄手のグレーのパーカー。下はジャージのハーフパンツで、ふくらはぎのいちばん張ったところに、若い筋肉のかたちがはっきりと見えた。長く運動を続けてこられた方の、足だった。

「先生、ここまで来ていただいて、ありがとうございます」

「いいえ。よくおいでくださいましたね」

浅井さんはまた、こくっと頷いた。話す前に頷くというのは、慣れない場で年上の人と向き合うときの、その方なりの段取りのようだった。

——

「鴨川って、初めてです」

しばらくして、浅井さんが言った。

「そうなんですね」

「大学が、こっちなんですけど、まだ右も左も分からなくて」

「お引っ越しは、四月のはじめに?」

「はい。三月の終わりに、東京から」

ご出身は、関東のどちらかでしたねと私はZoomのときの記憶を引き出しながら、それを口には出さなかった。

代わりに、保温ボトルから紙コップに、温かい麦茶を注いだ。家から持ってきていたものである。雨上がりの河原で冷えるかもしれないと思って、ふだんよりすこし熱めにしておいた。

「浅井さん、よかったらどうぞ」

「あ、ありがとうございます」

紙コップを両手で受けてくださった。指の節のあたりに、絆創膏が小さく一枚貼ってあった。練習中のものだろうか、と思ったけれど、これも訊かなかった。

——

川面のうえで、夕方の光の帯が、また少しだけ位置を変えた。

「先生」

紙コップを口元に近づけて、浅井さんは、息で湯気をふっと一度散らした。

「あの、私ずっと迷ってたんです。来るかどうか」

「ええ」

「でも、お母さんに、行ってきなさいって言われて」

「お優しいお母さまですね」

「はい」

浅井さんは紙コップに口をつけて、麦茶をひとくち含んだ。それから、しばらく川のほうを見ていた。

「先生」

「はい」

「春から私、ちょっとフィールドに立つのが、こわくなっちゃって」

その「こわくなっちゃって」は、できるだけ軽く言おうとされた言い方だった。けれど語尾のところで、ちいさく息が震えていた。十代の声の、まだ柔らかいところが、一瞬だけ表に出た。

私は紙コップの麦茶を、両手のあいだで包んだ。

「ゆっくりで、大丈夫ですよ」

そう私が返すと、浅井さんはもう一度こくっと、うなずいた。

雲の切れ間から、もうひと筋、夕方のひかりが落ちてきた。鴨川の流れのうえに、薄い金の帯がまた一本、増えた。

本作「先輩に陰で笑われています」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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