本作のあらすじ
「気にしないようにしてもらえないですか」——
大学のスポーツ推薦で、四月から関西の大学に進学した十代の女性。春休みからすでに部の練習に参加して、その早さがかえって、先輩たちの陰口の入口になってしまった。
夕立があがったばかりの鴨川の河原のベンチで、彼女はその萎縮を、はじめて誰かのまえに置こうとしている。
空がゆっくり晴れていく夕方、たま先生はその年若い相談者に、何を返すのだろうか——
「浅井さん」
私はベンチのうえで、すこしだけ姿勢を変えた。
ふだんお話を聞くときの私は、相談に来てくださった方ご自身がご自分のなかから言葉を取り出されるのを、横でただ静かに待つほうである。問いかけはすることがあっても、こちらから先に「こうしましょう」とは、めったに申し上げない。
けれど、いま私のとなりにいらっしゃるのは、十代のお嬢さんだった。
ご自分の力でフィールドのうえに立つ手前のところで、足が止まりかけている。その止まりかけのうえに大人の長い「待つ言葉」を重ねるよりも、いま私のほうから短くひとつだけ、お返しできる言葉があるならば。
——
「ひとつだけ、お話してもいいですか」
「はい」
「これは、お母さまのかわりではないし、監督さまのかわりでもないんです」
「ええ」
「この河原で、あなたとひとり対ひとりで、ひとつの大人としてお伝えしておきたいことなんですよ」
「はい」
——
私は紙コップを、ベンチのうえに置いた。
両手は、膝のうえで、軽く組んだ。
「先輩のことは、気にせずに」
「ええ」
「ご自分のために、頑張られたほうがいいですよ」
そのひと言を、私はふだんの声よりもほんのすこしだけ強く、まっすぐに置いた。
——
浅井さんは、瞬きをひとつ、ゆっくりとした。
それから紙コップのほうに視線を落として、もう一度こちらを見上げた。
「先輩のことは」
「はい」
「気にせず、私のために」
「ええ」
——
「先輩の方たちはたぶん、悪い人ではないと、私は思っています」
「ええ」
「あの方たちも、頑張ってこられた方なんですよ。きっと推薦か、それに近いかたちで部に入ってこられて、何年もご自分の場所を守ってきていらした」
「ええ」
「そこへ春休みからもう来ている大型の新人がいるって聞いて、自分たちの立っているところがすこしでも危なくなる気がして。それでつい、ああいう言葉が出てしまった」
——
浅井さんは、紙コップのなかの麦茶のうえを、すこし揺らすようにした。
「先輩たちが、こわかったんですね」
「先輩たちのお気持ちは、先輩たちのものです。それを浅井さんが、こちらから動かすことはできないんですよ」
「ええ」
「動かそうとされるとそのぶん、ご自分のフィールドのうえに、立てなくなりますから」
「ええ」
——
私は、川のほうを向いた。
夕方のひかりの帯が、もうあと数歩のところまで、私たちのベンチのほうへ伸びてきていた。橋のうえも、もう全部金色に染まっている。雲の境のところで、青がだいぶ広くなっていた。
「先輩に認められなければ、と思って、立たれなくていいんです」
「ええ」
「先輩を見返してやろう、とも思われなくていいんですよ」
「ええ」
「ただ、ご自分のために、頑張ってください」
——
「ご自分のために」
浅井さんが、ご自分のお口で、もう一度なぞった。
「はい。あなたを推薦してくださった監督さまも、あなた自身のプレーをご覧になって、ここに呼ばれたんですよ。先輩を喜ばせるためでも、先輩を負かすためでもないんです」
「ええ」
「あなたが、あなたのお力で、ここまで来られた。それは、もうゆるがないんです」
——
それから私は、声のトーンを、ふだんの柔らかさに戻した。
「先輩たちにはこれからも、淡々と、ふつうにお付き合いされてくださいね」
「淡々と」
「はい。ご挨拶はきっちりしていただいて、お話をされるときも、こわばらずに丁寧に。それだけでいいんですよ」
「ええ」
「過度に反応されない、無理に距離を詰めようともされない。新人の方として、ふつうのお付き合いをされてください」
——
浅井さんは、しばらく黙っていた。
紙コップのなかで、麦茶のおもてが止まったまま、また動いた。風がベンチのほうを抜けていくたびに、湯気はもう立たないけれど、麦茶のおもてだけがすこし揺れる。それを浅井さんは、目で追っていた。
「先生」
「はい」
「私、気にしないようにってずっと、自分でも頑張ろうとしてきたんです」
「ええ」
「でも、気にしないようにすればするほど、頭のなかで再生される回数が増えちゃって」
「ええ」
「なんでいま先生がおっしゃったのは、すこし違うふうに聞こえました」
——
「気にしないと思って気にしないんじゃなくて、ご自分のために頑張ってる時間が長くなれば、自然と先輩のことがすこしずつ気にならなくなっていくんですよ」
「ええ」
「順番が、逆なんです」
「順番が、逆」
「はい」
——
雲の切れ目から夕方のひかりがもうひと筋、私たちのベンチのうえまで、するすると伸びてきた。
ベンチの板のいちばん端の私の右側にそのひかりがふっと当たって、雨上がりの板の表面が一瞬だけ薄い金色になった。
「あなたの場所は、ご自分のフィールドのうえですよ」
——
「ロッカーの前ではなくて」
「はい。フィールドのうえです」
そう私は、もう一度、まっすぐに置いた。
浅井さんは紙コップを、両手で握り直した。指の先のほうにほんのすこし、力がこもっていた。








