本作のあらすじ
「気にしないようにしてもらえないですか」——
大学のスポーツ推薦で、四月から関西の大学に進学した十代の女性。春休みからすでに部の練習に参加して、その早さがかえって、先輩たちの陰口の入口になってしまった。
夕立があがったばかりの鴨川の河原のベンチで、彼女はその萎縮を、はじめて誰かのまえに置こうとしている。
空がゆっくり晴れていく夕方、たま先生はその年若い相談者に、何を返すのだろうか——
「フィールドに立つと、二人の先輩の顔を、勝手に探しちゃうんです」
浅井さんは膝のうえの紙コップに、視線を落としたまま、続けた。
「いまどこを向いてるかな、いまなに話してるかな、って」
「ええ」
「自分のプレーじゃなくて、先輩のことしか、見えなくなって」
「ええ」
「それで、ボールが来ても、足が出なくて」
「ええ」
「いちばん簡単なパスも、止まらなくなりました」
——
夕方の光は、もうひと筋ふた筋と、雲の切れ間から伸びていた。
そのひかりはまだ私たちの座っているベンチのところには、届ききっていない。すこし下流の、橋のあたりまでだった。橋の欄干の白いところに、夕方のオレンジが薄く乗っている。それを浅井さんも、私のとなりで目で見ていた。
「監督にも、たぶん気づかれてます」
しばらく置いて、浅井さんが言った。
「春休みに見ていただいた私のプレーと、いまの私のプレーが、もう全然違うから」
「ええ」
「でも、なんで急にこんなふうになったのって聞かれても、私説明できなくて」
「ええ」
「先輩のせいです、なんて、言いたくないし」
——
そのひと言には、十代らしい筋の通り方があった。
私は紙コップを両手のあいだに、もう一度包み直した。
「言いたくない、という選び方は、浅井さんがご自分で決めていらっしゃるんですね」
「はい」
「それはそれで、いまのところは、ちゃんとした選び方でいいんですよ」
「ええ」
——
しばらく、二人とも、川のほうを見ていた。
雨上がりの川面を、ヒグラシのような遠い鳴き声が、いっとき横切った。けれどそれは六月の終わりのこの時間にしては早いから、たぶん私の聞き間違いだった。実際には川向こうの方から、誰かのバスケットボールをコンクリートに当てる低い音だけが、リズムなく届いてきていた。
その音を、浅井さんは耳のほうにすこし顔を傾けて、聴いていた。コンクリートの硬さのうえに、ボールがふっと落ちて、跳ねる。落ちて、跳ねる。間隔は不揃いだったけれど、リズムを探そうとしている誰かの音だった。
「家でもお風呂でも寝るときも、あの先輩たちの声が、頭のなかで再生されちゃうんです」
「ええ」
「『下手すぎやろ』って」
「ええ」
「忘れたいのに、忘れられなくて」
「ええ」
「フィールドに立つと、もういる前から負けてる感じです」
——
「先生」
浅井さんは、紙コップを膝のうえに置いて、両手を膝のあいだに挟むように下ろした。十代のお嬢さんの、まだ細い指のかたちだった。手の甲のほうに、薄く日焼けの跡が残っている。三月から外で練習をしてきた、そのぶんの色だった。
「なんで」
そのとき、浅井さんはこちらを見た。
ほんの少しだけ、声が高かった。
「なんで私がこんなに、先輩のことばっかり考えなきゃいけないんでしょうか」
——
私は、紙コップを、ベンチの端のほうへ置いた。
その問いには、すぐには答えなかった。
「気にしないようにしてもらえないですか、って思うんです」
しばらく置いて、浅井さんが言った。
「先生、これは相談する相手が違うのは、わかってます」
「ええ」
「先輩に、自分から『気にしないでください』って頼むのも変だし」
「ええ」
「でも、もし先輩のほうから私のことを忘れてくれたら、私ふつうにフィールドに戻れる気がするんです」
——
そのお言葉を、私は紙コップのとなりに、ゆっくり置いた。
「気にしないように、してもらえないですか」
それは、自分のいまの場所をなんとかしたい人が自分のとどく範囲ではないところに、最後の頼みのつなを伸ばそうとしている姿だった。
——
「浅井さん」
「はい」
「いまのお気持ちを、ご自分のお口で言葉にしてくださって、ありがとうございます」
浅井さんはふっと、すこし驚いたように瞬きをした。
「お礼を、言われると思ってませんでした」
「ええ。けれど、いま浅井さんがお出しになった頼みは、軽い頼みではなかったんですよ」
——
雲の切れ目が、また、すこし広くなった。
下流の橋の白いところまで届いていた夕方のひかりがゆっくり、上流のほうへ伸びてきていた。あと十分ほどしたら、ベンチの私たちの足元のあたりまでその帯が届くだろう。
私は紙コップに残っていた麦茶を、ひとくち口に含んだ。麦茶はもう湯気を立てるほどの温度ではなくなっていた。けれど唇に触れたところにほんの少しだけ、ぬくもりが残っていた。
「先生」
浅井さんがもう一度、こちらを向いた。
「答え、出ますか」
その問い方には、年齢のわりに、まっすぐな曇りのなさがあった。私はすぐには「出ますよ」とも「出ませんよ」とも申し上げなかった。
代わりに、ゆっくりとひとつ頷いた。








