本作のあらすじ
「私、娘の友達付き合いで、自分が傷ついてしまうんです」——
関東の街から京都までやってきた、四十代の母親。三年生にあがる娘の交友関係を見守るうちに、いつのまにか自分のほうが深く傷つき、夜ごとに眠れない日が増えていた。
新緑がいちばん濃くなる五月下旬の御苑のベンチで、彼女はその「自分の傷」を、はじめて誰かの前に置こうとしている。
娘の隣で、傷ついているのは誰なのか——その問いの先で、たま先生は、何を返すのだろうか。
新緑のいちばん濃い色が、頭の上で重なっていた。
御苑の砂利道のうえに、楠の大きな枝が長く張り出している。葉と葉のあいだから午前の光が落ちてきて、砂利のひと粒ひと粒に、小さな影をひとつずつつけていく。風が抜けるたびに、その影もゆっくり位置を変える。空の高いところを、薄い雲が一枚、ゆっくりと西へ流れていた。
五月の下旬の、京都御苑である。
二週間ほど前まで、楠の若葉はまだどこか頼りなく見えていた。それがこの一週間で、見上げるたびに緑の重さを変えてきた。今朝の緑は、もう薄さの名残をどこにも残していなかった。樹のいちばん高いところまで、ひとつのまとまった色に染まっている。年に数日だけ御苑の緑がいちばん濃くなる季節があって、その数日のひと日に、私はベンチに腰を下ろしていた。
風には、もう冬の鋭さは残っていない。けれど夏のしっとりした重さも、まだない。袖の麻のシャツが、肘のあたりだけほんの少し冷たかった。
——
ラジオ局のスタジオを出たのは、一時間ほど前だった。
月にいちど、第一金曜日の午後に番組をいただいているけれど、今日は朝の特別収録だった。連休前にまとまった素材を録っておきたい、というディレクターの宇野さんの段取りである。宇野さんは、私がこの番組をはじめた頃からずっとご一緒してくださっている関西の方だった。八時にスタジオ入りして、十時過ぎに終わった。
「ええ声、出てましたよ。今日も」
ガラスの向こうから宇野さんが笑い、私はヘッドフォンを外して頭を下げた。十年以上、お互いに同じ仕草で別れている。
スタジオを出てから御苑の中立売御門までは、歩いて二十分かかるかどうかだった。宇野さんに「次の予定が御苑なんで」と告げると、彼はちょっと目を細めて「ええなあ。今日はええ天気やし」とだけ返してくれた。番組以外のことには深く立ち入らない人で、私はその距離感に長く、助けられてきた。
御所の塀沿いをゆっくり歩いた。
塀の白がそのままの白でないことを、京都に長く住んでいる人は皆、知っている。ところどころ、雨と陽の通った跡が滲んで、白というよりは「白の記憶」のような色になっている。指先でその壁を撫でたら、何かの古い言葉が指先のほうに移ってきそうな気がする——朝の光のなかでは、特に。
中立売御門から御苑のなかに入って、砂利道をまっすぐ南へ歩いた。
待ち合わせの場所は、いつものベンチである。長く話す方を御苑に呼ぶときは、楠の大樹の下のベンチを私はいつも選んでいた。本能寺のお茶会の参道にも近い場所である。
——
少し早めに着いて、ベンチに腰を下ろした。
膝のうえに、保温ポットを載せた帆布のバッグを置いた。中には、ほうじ茶を入れてきている。家を出るまえにいちど湯を沸かして、もう一度沸かし直して、それから茶葉に注いでポットに移してきた。御苑のベンチで話すときに、湯呑みのお茶があるかないかでは、聴こえる声の温度がだいぶ違ってくる。
砂利のうえを、ベンチのまわりだけ、ゆっくりと風が抜けていった。少し離れたところで、年配のご夫婦らしい二人連れが、犬の散歩をしている。犬は柴の若いほうだった。リードを引っぱりたい気持ちとご主人さまの歩調に合わせる気持ちのあいだで、一歩ごとに迷っていた。その揺れが、こちらの目にも、軽くおかしかった。
楠のいちばん高い枝の上で、メジロが二羽、影だけ見えた。声は届いてこない。この季節の御苑のメジロは、街中の街路樹にいるメジロよりずっと声をひそめて鳴くような気がする。
——
私がいま待っているのは、川原さんという女性だった。
これまで何度か、画面の向こうでお話を聞いてきた方である。住んでいらっしゃるのは関東のある街で、ご主人ともうすぐ三年生になる娘さんと、三人で暮らしていらっしゃる。最後にお会いしたのは、年が明けて間もない頃だった。あのときは、娘さんの新学期の話をぽつぽつとされていた。
二週間ほど前に、メッセージが届いた。
「先生に、一度だけ直接お会いしたいんです」
その下に、こう続いていた。
「私、娘の友達付き合いで、自分のほうが傷ついてしまうんです」
——
私はその一行のうえで、しばらく指を止めた。
「娘の」ではない。「自分が」だった。
そこに、ご自分でも処理しきれていない何かがあるのだろう、と私は思った。ご自分のお気持ちに、ご自分でいちばん名前をつけにくい瞬間というのは、たぶんこういう一行のなかに混ざってくる。
返信は、その日のうちに送った。京都までお越しになる日付と、御苑のベンチの場所を、地図のリンクを添えて。返信は、短く戻ってきた。
「うかがいます」
——
ベンチのうえに、ポットの口からほんのすこしだけ、湯気が立ちのぼっていた。
砂利を踏む音が、ゆっくり近づいてきた。
顔を上げると、麻のジャケットを羽織った女性が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。バッグは肩のかたちに沿うやわらかい革のもので、足元は底のうすいスニーカー。歩き方はまっすぐで、けれど一歩ごとに、足音を立てないように気をつけている人の歩き方だった。
「先生」
声は、想像していたよりも、やや低かった。Zoomで聴いてきた声よりも、ほんの少しだけ落ちている。長く誰かのために声を抑えてきた人が、自分のそとに出すときの、そういう低さだった。
「川原さん。お待ちしておりました」
私はベンチから立ち上がって、頭を下げた。川原さんも深く頭を下げ返してから、ベンチの端に腰を下ろした。座ってから、自分の膝のうえで両手をそろえ直した。指の節が、すこしだけ赤かった。料理と洗いものを、毎日休まずに続けてきた人の手だった。
——
ベンチの端と端で、しばらく、二人とも何も言わなかった。
楠のいちばん高い枝のあたりを、また風が抜けていった。葉のうえを通りすぎた光が、川原さんの靴の先のほうに、ふっと落ちてはまた消えた。
「先生」
しばらくして、川原さんが顔を上げた。
「ここまで来てくださって、本当にありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、よくおいでくださいました」
私はポットから湯呑みにほうじ茶を注いで、川原さんに差し出した。湯気がいったん、二人のあいだに上がって、それから空のほうへ細く溶けていった。
「すみません、いただきます」
川原さんは湯呑みを両手で受け取って、しばらく口はつけずに、湯気だけを見ていた。
——
楠のうえを、雲がもう一枚、北西から南へと流れていく。
「先生」
川原さんが、湯呑みから目を離さずに、言った。
「メッセージにも、書きましたけれど」
「ええ」
「私、娘の友達付き合いで、自分のほうが傷ついてしまうんです」
その一文を口にしたあと、川原さんは唇のあたりを、軽く結んだ。けれどそれは、長くは続かなかった。一度ぎゅっと結んでから、ゆっくり、ふだんの位置に戻していった。「ようやく外で言葉にできた」というよりは、「外で言葉にしたあとの自分を、自分でいま確かめている」というふうに見えた。
私は、すぐには応えなかった。
応えるには、まだ早かった。湯気は、二人のあいだで、まだ細くまっすぐに立ちのぼっている。
砂利の上を、雲の影がゆっくりと一枚、こちらの足元を通り過ぎていった。








