本作のあらすじ
「私、彼とレスなんです」——
五十代の女性が、京都の西陣まで「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
付き合って八ヶ月の、十二歳下の彼。最初の三ヶ月はあったのに、ここのところはずっと、手をつなぐところで止まっている。それでも彼は毎週、会いに来てくれる。私の魅力が、もうなくなったのでしょうか——その問いを抱えて、彼女は町家の坪庭が見える奥の席に腰を下ろす。
夕日が坪庭の苔を染めるころ、たま先生はその問いに、どんな笑顔を返すのだろうか——
「八ヶ月になります」
白石さんが言った。
「お付き合いが、ですね」
「はい」
私はうなずいて、自分のカップにも一度、口をつけた。煎じたばかりの中国茶の香りが、薄く鼻の奥に抜けていく。坪庭からは、夕方の風がゆるく差し込んでくる。
「会ったのは、去年の秋でした。共通の知り合いの集まりで、たまたま隣に座って」
「ええ」
「そのとき、彼が十二も年下だなんて、私は思っていなかったんです。話しているうちに年の話になって、はじめて知りました」
そこで白石さんは、ふっと自分の話を止めた。それから、お茶のなかに、ふた呼吸ぶんくらいの沈黙を落とした。記憶を一度、味見するような間だった。
——
「私、その夜、家に帰る電車のなかで」
「ええ」
「自分の年齢のことを、ちょっと初めて、変な意味で意識したんです」
「変な意味で、というのは」
「彼が私のことをどう見ているのかっていう、そういうことではなくて」
白石さんが、少し言葉を選んだ。
「自分が、自分のことをどう見ているのかっていう、そっちのほうの問題でした」
「ええ」
「私、それまでは年齢のこと、わりとどうでもいい人間のつもりだったんです。お肌とか体型とか、そういう細々したことに意識を取られすぎずに、やってきたつもりで」
「ええ」
「それなのに十二も年下の方と隣で笑った、というだけで、急にいろんなところが気になりはじめました」
——
私は静かに頷いた。
普段は気にならないものが、ある一人の他人の前で急に気になり出す。それは、その人のなかで何かが新しく始まりかけている合図でもある。
「それから二、三回お食事をして、年が明けてすぐにお付き合いがはじまりました」
「ええ」
「最初の三ヶ月は、ふつうにありました」
そう言ってから、白石さんは少しだけ目を伏せた。
「ふつう、と言ってしまうのが、自分でも変な感じなんですけれど」
「ふつうで、いいんですよ」
「彼のほうから求められることもありましたし、毎週ではなくても月に二回か三回は、そういう時間がありました」
「ええ」
「そのときの彼はなんて言ったらいいのか、ちゃんと私の目を見ていました」
——
白石さんはそこで、自分の手を胸のあたりにそっと重ねた。
「目を見ていただけのことなのに、その三ヶ月のあいだは、自分の年齢のことを忘れていられたんです」
「忘れていられる、というのは」
「自分が自分の体のなかにちゃんといて、彼の前にちゃんと座っているっていう、そういう感じです」
私は静かに、その言葉を心のなかで反芻した。
自分が自分の体のなかにいる、というのは、私が鍼灸の現場で患者さんによくお伝えする表現にとても近い。白石さんはその感覚を、ご自分の言葉として持っていらしたのだ。
——
「ところが、四ヶ月目に入ったあたりから、ぱたりとなくなりました」
白石さんが続けた。
「ぱたり、ですか」
「はい。きっかけがあったというよりは、気がついたらぱたり、と」
「最初はそんなに気にしていなかったんです。お互い大人だし、毎週会えなくても月に二回会えるならそれで十分、という気持ちで」
「ええ」
「でも五ヶ月、六ヶ月と続いて、七ヶ月目に彼に一度だけ聞いてみました」
——
白石さんは、ちょっと苦笑した。
その苦笑のなかには、自分でも聞きたくなかったことを聞いてしまった人の、後悔のような色が薄く混じっていた。
「『私、もう女として見えなくなった?』って」
「ええ」
「彼は、すぐに首を振ってくれました。そんなことは絶対にない、と」
「ええ」
「『今は性欲がないんだ』って、言われました。『プレッシャーを感じて、そういう気持ちにならないんだ』って」
私は、白石さんの目を見た。
「『プレッシャーを感じる』とおっしゃったんですね」
「はい。そうなんだ、ってその場では受けとめたんです。彼にも事情があるのはわかりますし。でも家に帰ってから、その『プレッシャーを感じる』という言葉だけがずっと頭のなかに残ってしまって」
「ええ」
「私、彼に何かプレッシャーをかけてしまっていたんでしょうか」
——
坪庭の手水鉢のうえに、青もみじの葉が一枚、そっと落ちた。
水のかたちが薄くゆれて、すぐに静まり返った。
「白石さん」
「はい」
「いまのお話、ここまでで、何かに気がつかれましたか」
白石さんは、ちょっと首をかしげた。
「気がつく、というのは」
「ご自分のなかで、いちばん引っかかっていらっしゃるのがどの言葉か、ということです」
少しの沈黙のあと、白石さんは口を開いた。
「『プレッシャー』、ですね」
「ええ」
「もうひとつ、自分のなかでずっと反芻している言葉があって」
「どんな言葉ですか」
「『最初の三ヶ月は、あったのに』」
——
白石さんは、自分でもその言葉を口にした瞬間に、ふっと笑った。
苦笑というには少し柔らかい、けれど明るく笑っているわけでもないような笑い方だった。
「自分で言っていて、変ですね、これ」
「変じゃないですよ」
「『最初の三ヶ月は、あったのに』って、それ自分が彼にいちばんプレッシャーをかけてる言い方じゃないですかって今ちょっと思いました」
私は、何も言わずに微笑んだ。
白石さんが自分の口で、自分の引っかかりに名前をつけはじめている。その瞬間に立ち会えたことが、私には嬉しかった。
夕方の光は、坪庭のいちばん高いところから、そろそろ屋根の影に隠れようとしていた。








