本作のあらすじ
「私、彼とレスなんです」——
五十代の女性が、京都の西陣まで「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
付き合って八ヶ月の、十二歳下の彼。最初の三ヶ月はあったのに、ここのところはずっと、手をつなぐところで止まっている。それでも彼は毎週、会いに来てくれる。私の魅力が、もうなくなったのでしょうか——その問いを抱えて、彼女は町家の坪庭が見える奥の席に腰を下ろす。
夕日が坪庭の苔を染めるころ、たま先生はその問いに、どんな笑顔を返すのだろうか——
「先生」
白石さんが、改めて、私のほうを見た。
「はい」
「私、ちょっと、すごく恥ずかしいことを言ってもいいですか」
「もちろんです」
「私、ここに来るまで」
白石さんはちょっと、口の端を上げた。
「彼を、自分のものさしで測っていました」
「ええ」
「私の魅力をちゃんと求めてくれる男性が、私のことを大事に思ってくれてる男性っていう、すごく単純なものさしで」
「ええ」
「そうかぁ、私、間違ってましたね」
——
そう言って、白石さんは、ふっと笑った。
軽い笑い方だった。自分の思い込みのかたちが、急に小さく見えてしまった人の、ちょっと困ったような明るい笑い方だった。
「間違っていたわけでは、ないですよ」
私は穏やかに言った。
「ものさしを、ご自分で持ち替えていらっしゃるんです。間違いを正しているというより、ご自分の手のなかにもう一本増やされたんですよ」
「もう一本」
「ええ。『毎週、会いに来てくれること』のものさしのほうも、ご一緒にご覧になれるかもしれませんね」
白石さんは、ふっと、自分の手のひらを胸のあたりにそっと当てた。
「先生、あったかいです」
そうおっしゃった。
——
坪庭の灯籠の橙色の光が、白石さんの手のあたりまで薄く届いていた。その光のなかで、白石さんはしばらく、手のひらを胸に当てていた。
「先生」
「はい」
「今日、ここに来てよかったです」
「私も、白石さんとこうしてお話できて、よかったです」
「彼、来週の土曜日にも、また家に来てくれます」
「ええ」
「もう、あの『軽くだけ』のキスをつまんないって思わないかもしれません」
「いま、おっしゃってみて、ご自分でどう感じられました?」
「『つまんない』のかわりに『ありがとう』って思えたら、私たぶんぐっと楽になります。それを彼にも、ちゃんと伝えてみようかなって思いました」
——
私は、ゆっくり頷いた。
「白石さんがご自分の言葉でそれを伝えていらっしゃる場面が、私には、もう見える気がします」
そう言うと、白石さんはまた笑った。
「先生のそういう、断言なさらないところが私、好きです」
「ええ」
「『見える気がする』くらいの距離が、私にはちょうどよかったです」
——
私はその褒め言葉のかたちを、自分の胸のなかに静かに置いた。
「白石さん」
「はい」
「お見送り、坪庭のところまでで、よろしいですか」
「もちろんです」
——
会計を済ませて、私たちは店の出口へ向かった。店主の方が、しずかに頭を下げてくださった。
格子戸を開けると、路地はもう夕方の暗さに沈んでいた。その暗さは、夜のものではなく、まだどこかで夕方の橙色を残していた。京都の五月の、いちばん長い夕方が、路地のあちこちに薄く残っていた。
「私は、京都駅のほうから新幹線です」
「お気をつけて」
「先生も。今日は、本当にありがとうございました」
白石さんは、もう一度深く頭を下げて、路地の北のほうへ歩きはじめた。その背中は、来たときよりも、ほんの少し軽そうに見えた。
——
私はしばらく、町家の前に立っていた。それから、路地を白石さんとは反対のほう、南へ歩いた。
格子の家並みの隙間から、どこかの台所の出汁の匂いが、ふわりとこちらの鼻先まで届いた。町じゅうの暮らしが薄く同じ匂いで繋がっているような気がした。
——
二筋ほど歩いたあたりで、向こうから歩いてきた一人の老婦人と、ふっと目が合った。
白い割烹着の上に、薄い藤色の上着を羽織った方だった。手には、夕飯のお買い物の袋を二つ、軽く下げていた。
老婦人は私の顔を見て、少し首を傾けた。それから確かめるようにもう一度、私を見た。
「あんさん、もしかしてFM845のたまさん、やろ?」
その声には、京都の夕方の柔らかさが、たっぷりと混じっていた。
「あ、はい」
私は思わず、足を止めて、少しだけ頭を下げた。
「やっぱり! ええ声してはるなあ、あんた」
老婦人は、ほうっと長く息を吐いた。
——
「あんさんの番組、毎月、第一金曜日に必ず聞いてるんよ」
「ありがとうございます」
「最後にかけはった曲、ええわぁ。外国の、ちょっとさみしい感じのやつ」
老婦人は、お買い物の袋の片方を地面に置いて、私の手をそっと両手で包んだ。
「あんたの声でラジオ聞いてると、夕方の台所がな、ちょっとあったこうなるねん」
「そんなふうに、聞いてくださってるんですね」
「ほんま、ありがとうな」
——
その笑顔のなかに、私は、白石さんが今日いちばん最後に見せてくださった笑顔とよく似た色を見た。長く一つのことを大事に持ち続けてきた人が、それをふいに誰かに差し出す瞬間の、柔らかい光だった。
「ええ夕方やね」
老婦人がそう言った。
「ええ夕方ですね」
私もそう返した。
老婦人はもう一度軽く会釈をして、路地の北のほうへ歩いていった。
——
私はしばらく、その背中を見送っていた。
白石さんも、いま、どこかで京都駅へ向かう細い道を歩いていらっしゃるはずだった。新幹線の窓辺に着いたら、あの方はきっと自分の手のひらをもう一度、胸のあたりにそっと当ててみるだろう。
「あったかいです」
その一言は、白石さんがご自分の手で見つけてくださった一言だった。
——
路地の角の格子戸の向こうで、誰かが包丁を使う音が軽く響いた。夕方の京都の路地のあちこちで、お夕飯の支度がひと家ひと家ではじまっている。
私は少し笑った。
ええ夕方やね、という老婦人の声が、まだ私の耳の奥にふんわりと残っていた。








