本作のあらすじ
「私、娘の友達付き合いで、自分が傷ついてしまうんです」——
関東の街から京都までやってきた、四十代の母親。三年生にあがる娘の交友関係を見守るうちに、いつのまにか自分のほうが深く傷つき、夜ごとに眠れない日が増えていた。
新緑がいちばん濃くなる五月下旬の御苑のベンチで、彼女はその「自分の傷」を、はじめて誰かの前に置こうとしている。
娘の隣で、傷ついているのは誰なのか——その問いの先で、たま先生は、何を返すのだろうか。
「習い事に一緒に通っているお子さんが、ひとり、いるんです」
しばらくして、川原さんは話を続けた。
「英語の教室です。同じ学校の同じ学年の子で、お母さま同士もたまにご挨拶する程度のお付き合いがあって」
「ええ」
「その子とときどき娘が学校の外で遊ぶようになって、半年くらいになります」
「お友達ができたんですね」
「はい。一応、そういう形では、できました」
「一応」、と川原さんは言った。
その短い言葉のうしろに、母親が長くずっと持ち続けてきた逡巡が、丸ごと折りたたまれていた。
——
ベンチのうえに、楠の若い葉が一枚、ふっと落ちてきた。
風で千切れたばかりの葉は、ふだんなら砂利のうえまで落ちきるところだった。けれどその葉だけが、ベンチの板のうえにまっすぐ、平たく着地した。川原さんの湯呑みの脇に、葉のかたちのまま、止まった。
葉のうえを、楠の高いところからの光が、ひとつ通った。
「そのお子さん、ご自分の思い通りにならないとすぐ、ご機嫌をなくされる方なんです」
川原さんが、その葉のほうへ目を落としたまま続けた。
「うちの娘がたとえば一緒に持ってきたカードのことや、お絵描きの色のことで、あの子の思った通りに動かないとふっとお口を結んでしまうんです」
「ええ」
「それで、しばらく、口をきかなくなる」
「お子さんに、ですか」
「はい。うちの娘に、です」
——
川原さんはそこで、湯呑みのほうじ茶を、ひとくちだけ含んだ。
「あの子の家にお邪魔した日のことです」
「ええ」
「先月のはじめだったと思います。お友達のお母さまにお招きいただいて、私と娘で、ご自宅にお邪魔しました」
「ええ」
「お茶をいただいて、お母さま方は階下のリビングでお話して、子どもたちは二階のお部屋で遊んでいました」
——
その日のことを、川原さんはひとつひとつ、ゆっくり置き直すように語っていった。
二階の部屋から、ときおり笑い声がした。けれど、おなじ間隔ではなかった。あるときには、ふたりの笑い声が同時に降りてきた。あるときには、ひとりの声だけだった。あるときには、ぴたりと音が止まっていた。
階下のリビングで川原さんは、そのお母さまの「うちの子、最近やんちゃで」というお話を聴いていた。お茶のカップを口元にもっていく動作のなかで、ずっと二階の音のほうへ自分の耳を傾けていた。
「ふいに二階から、ひとつ声が降りてきたんです」
「どのような」
「お友達のほうの子の声で、『なんでそんなん持ってきたの。それ、わたし、いらん』って」
「ええ」
「そのあと、しばらく、声が止まりました」
——
私は何も挟まず、川原さんの呼吸の長さを聴いていた。
楠のうえを、また、風が抜けた。
「先生」
川原さんが、こちらに目を戻した。
「私、自分のお茶のカップを、しばらく口元から離せなかったんです」
「ええ」
「カップの縁を口につけたまま、そのまましばらく動けなくて」
「ええ」
「『うちの子、いま二階でひとりで何を抱えて立っているんだろう』って」
——
川原さんは、その瞬間、ぐっと唇を噛んだ。
歯のあいだに下唇を軽く挟んで、それから、力を入れた。歯の跡が、唇のうえにうっすらと残った。眉のあたりも、すこしだけ、内側に寄った。
涙は、出てこなかった。
——出てこないのではない。出さない、と決めていらっしゃるのだ。
私はその顔を、横目に、そっと見た。眦のあたりがほんの少しだけ濡れているようにも見えたけれど、それが涙なのか御苑の朝の光のせいなのかは、すぐには分からなかった。たぶん、そのどちらでもあった。
——
「お子さんの前で、お茶のカップを置かれるのも、急がれなかった」
私が、ようやく一言だけ挟むと、川原さんはゆっくりと頷いた。
「はい。あそこで動揺したら、お友達のお母さまに失礼だって、思いました」
「ええ」
「それと」
川原さんが、湯呑みのほうへ目を戻した。
「私が二階のほうを気にしているのをリビングで気づかれたら、たぶんそのあと、うちの娘がもうそのお家に呼んでもらえなくなる気がしたんです」
——
その答えを聞いて、私はもう、しばらく口を開かないでいた。
——「呼んでもらえなくなる」というそのひと言の重さを、私は私のなかで、いったん受けとめておくべきだった。
子どもの世界の輪は、母親が動いた途端に、ふっと閉じてしまうことがある。母親の側がそれを知っているから、母親はリビングで自分のお茶のカップをそっと口元から離す手のひとつまで、自分で抑えなければならなくなる。何も知らない人が見たら、ただの「気を遣ったお母さま」に見えるかもしれない。けれどその「気を遣う」のいちばん下のところには、子どもの居場所を守るために、母親自身の動揺をひとり丸ごと飲みこんでいる時間がある。
——
「お家から帰る道で、娘さんは、何かおっしゃいましたか」
「いいえ。何も」
「ええ」
「『楽しかった?』って何回も聞きそうになって、何回も飲み込みました」
「ええ」
「あの子もたぶん、自分のなかで二階のあの一言を、何回も飲み込んでいる時間でした」
——
川原さんがふたたび、唇のあいだに下唇を挟んだ。
肩のあたりが、ほんの一瞬だけ、すこし強張った。
けれど涙は、やっぱり、こぼれなかった。
「先生」
「はい」
「あの子は、ちゃんと、笑っていました」
「ええ」
「『今日、楽しかったね』って、あの子のほうから私に言ってくれたんです。家に帰る道の信号を渡るときに」
「ええ」
「私、そのとき、こう思いました」
川原さんがそこで、ほんの一瞬だけ目をつむった。
「『この子のほうが、私より、ずっと強いんだ』って」
——
私は何も挟まずに、頷いた。
「先生」
「はい」
「私、それから家に帰って夜お風呂に入ったときに、あの『なんでそんなん持ってきたの』のひと言をもう一度自分のなかで聞き直したんです」
「ええ」
「そうしたらお風呂のなかで、私のほうがぐしゃっとなりました」
「ええ」
「あの子じゃなくて、私のほうが」
——
川原さんはそう言いながら、もう一度唇を軽く噛んだ。
涙は御苑のベンチのうえでは、最後までこぼれなかった。
御苑のいちばん高い枝のうえを、メジロがもう一度、影だけで横切った。
声は、やはり聞こえなかった。








