本作のあらすじ
「もう、大丈夫です」——
関西のある街から京都の嵐山まで、二十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
数年間の片想いの末に、突然連絡先をブロックされた。彼に認められたいと願ってきた自分の正体に、彼女はようやく気づきはじめている。それでも夕方になるたびに、胸の奥で小さく崩れていく音が止まない。
梅雨晴れ間の渡月橋のたもとで、たま先生はその人にどんな時間を返すのだろうか——
阪急嵐山駅を出たのは、午後の四時を少し過ぎた頃だった。
一週間ほど続いた雨が、午前のうちにいったん上がっていた。空にはまだ薄い雲がのこっていたけれど、雲の隙間からは梅雨にしては澄んだ光が、川面のほうへとまっすぐ落ちはじめていた。
駅から渡月橋までの道は、観光客の声がいつもよりも控えめだった。雨が上がったあとの京都には、夏が来る前のひと呼吸のような時間がある。葉のいちまいいちまいに前夜の雫がうっすらと残っていて、その重さの分だけ町全体がゆっくり進んでいるように見える。
私は、桂川沿いの遊歩道をゆっくり歩いた。
嵐山に来るのは、ずいぶん久しぶりのことだった。学生のころには家の近所のように歩いていたこの場所も、相談の仕事を始めてからは、なぜかあまり選ばないようになっていた。観光地としての顔が強い場所は、お話の途中でその方の声が、人の往来にかき消されてしまうことがある。
それでも今日この場所を選んだのは、相手の方からの一通のメッセージのなかに、川を見ていたいという一行があったからだった。
——
中川さんという、二十代の女性だった。
これまでに二度、画面の向こうでお話を聞いてきた方である。最初にお会いしたのは桜のすこし前のころで、その日はほとんど話せないままZoomの時間が終わってしまった。二度目は連休のあたりで、その日にようやく、片想いをしていた相手のことをご自分の口から話してくださった。
数年のあいだ、心を寄せていた人。
ある日、突然、連絡先をブロックされた。理由は何も告げられずに、ただ画面のなかから、その方の名前だけが消えた。
最初の何日かは、ご自分のなかで自分の言動を激しく責めたのだという。あの言葉が悪かったのか、あのときの態度が重かったのか。指の先まで震えるような夜が続いて、それでも一週間ふた月と時間が経つにつれ、心のかたちが少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
そして三度目のZoomを取らずに、一通だけ、メッセージが来た。
「先生」
「私、たぶん彼のことが純粋に好きだったんじゃなくて、彼に認められたかっただけだったんです」
「気づいたんです。それなのに、夕方になると胸の奥がまだ虚しくて」
「一度だけ京都までうかがって、川のあるところで、お話を聞いていただけませんか」
——
私はその一通を、しばらく画面のまま置いて見ていた。
ご自分の中の何が片想いの中身だったのか、それをご自分の指でほどいてしまった人の文面だった。けれど、ほどいたあとに残った糸のかたちが、まだご自分にはうまく見えていない。そういう揺らぎが、文面の隙間にたしかに残っていた。
返信は、その日のうちに送った。
「お会いしましょう」
短く、ひと言だけ。場所は、後で別便で。
それから幾日かのちに、私のほうから渡月橋のたもとを、待ち合わせ場所として提案した。「川面のいちばん広いところを、夕方の光のなかでご覧になりませんか」と書いた。返信は、その晩のうちに来た。
「うかがいます」
そのひと言の最後に、小さなお辞儀の絵文字が、ひとつだけ添えられていた。
——
遊歩道を歩きながら、私は、川向こうの嵐山のほうを見ていた。
雨上がりの山の緑は、新緑のころのあの透けるような薄さを、もうどこにも残していなかった。葉のいちまいいちまいに夏の色が、しっかりと宿りはじめている。けれど空のひかりだけは、初夏のあの澄んだ高さを半分ほど引きずっていた。
橋のほうに視線をやると、若い女性のうしろ姿が、ひとつ見えた。
橋のたもとの、欄干にいちばん近い場所だった。淡いベージュのワンピースに、薄手のショールを肩に羽織っていた。髪は耳のうしろでひとつにまとめておられて、首筋のあたりが、夕方の光のなかでまだ若かった。
その方は、川のほうに身体を半分だけ向けて、桂川の水面をゆっくり眺めていらした。橋を渡る人波のあいだに混ざってはいたけれど、その方の輪郭だけが、流れから半歩ずれた場所に静かに立っていた。
長く何かを待っている人の立ち方ではなかった。もう、待つことを終えてここにいる人の立ち方だった。
——
「中川さん」
声をかけると、その方はゆっくり、こちらを向かれた。
驚かない瞳だった。声が来ることをご自分のなかで、もうずいぶん前に整えていらしたお顔である。そういう人にお会いするとき私はいつも、ご挨拶の前にひと呼吸だけこちらの体を整えるようにしている。
「先生」
「お待たせしました」
「いえ。私が早く着きすぎたんです」
中川さんは、ふっと笑った。その笑い方は、年齢のわりに少しだけ大人びていた。自分のなかで誰にも見せられない夜を長く抱えてきた人が、外で自分を立て直す術をもう身につけてしまっている。そういう笑い方だった。
「ご無理を言って、すみません」
「いえいえ。今日は、よくおいでくださいました」
中川さんはもう一度欄干のほうを見て、それから私のほうへ向き直った。
その目の縁に、夕方の光が、ふっと薄く落ちた。








