本作のあらすじ
「先生」——
朝の哲学の道で、ひとりの五十代の男性がたま先生に声をかけてきた。同じ会社のシングルマザーの女性と、五年。秘密の関係、毎月の援助、そして近頃気になりはじめた彼女の振る舞い。
大阪から始発で京都へやって来たその人は、雨上がりの紫陽花の路を、たま先生と並んで歩きはじめる。
男の声で、ようやくこぼれてきたその話に、たま先生は何を返すのだろうか——
若王子の脇道を入ってすぐのところに、その喫茶店はあった。
道に面した格子戸の奥に古い木の扉が一枚あって、扉の脇には薄い藤色の暖簾が掛かっている。常連だけが知る店で、観光の人はまず入らない。私は朝のうちに長い話をするときに、ときどきこの店の窓側を借りる。
ベルが鳴って、店主の老婦人が、奥から小さく頷いた。
「あ、いつもの」
「窓辺、お借りします」
「どうぞ、どうぞ」
店内に客はまだ、誰もいなかった。
——
窓辺の席に、向かい合って座った。
西原さんはコートを着ていなかった代わりに、半袖のシャツの袖口を座る前に手のひらでひと撫でした。長く片手にコーヒーを持って歩いてきたあとの、無意識のしぐさだった。私はメニューを見ずに、ホットコーヒーをふたつ、お願いしますと頼んだ。
窓の向こうに、青もみじの一枝がせり出している。雨上がりの葉のうえに、午前の光が薄く乗っていた。
「お話の続き、聞いていてもよろしいですか」
「はい」
——
コーヒーが運ばれてきた。
西原さんは、自分の前に置かれたカップを、しばらく両手のあいだに置いていた。それから、ひとくちだけ口をつけて、ゆっくりカップを戻した。さきほどまでコンビニのカップの紙のフタに当てていた指は、いまは陶器の縁に当たって、ほんの少しだけ温度のある場所を確かめていた。
「先生」
「はい」
「私、自分のなかではもう、わかっているんです」
「ええ」
「彼女のなかで私は、いちばんではない」
「ええ」
「お金を出して話を聞いてあげて、休日に車を出してあげてときどき会えればそれでいい——そういう距離の人なんです。私のことは」
——
私は、何も挟まなかった。
窓のそとを、雀が一羽また一羽と続けて飛んでいった。
「『彼女に毎月十万渡しています』というやつだと思います」
西原さんが、自分でその言葉を、自分の口から下ろした。
「五年間、自分のことをそう呼びそうになっては、何度も飲み込んできました」
「ええ」
「『そんなはずはない』と、自分で自分に言い聞かせてきました」
「ええ」
「けれど先週のホテルの近くの話を聞いたあとに、もうその言葉が飲み込めなくなって」
——
私は、ゆっくりカップに口をつけた。
コーヒーの苦さが、今朝の空気のなかにひと筋だけ深く入ってきた。
「西原さん」
「はい」
「今日京都までいらっしゃるとき、新幹線のなかでどんなお気持ちでしたか」
そう尋ねると、西原さんはしばらく、答えなかった。
それから、首をすこしだけ、傾けた。
「もう、いいや、と思っていました」
「ええ」
「五年というのは私のほうのかたがつきかけている、そういう五年です」
「ええ」
「彼女のせいに、したくないんです。彼女は、彼女のままで、たぶん変わりません。私が変わらないと、変わらない時間です」
——
彼の声から、ほんの少しだけ、力が抜けていた。
怒りでも、嘆きでもない。長く張りつめていた糸がある朝ふっと、もういいかなと思って手を離す——そういう種類の力の抜け方だった。
「西原さん」
「はい」
私は、自分のカップから手を離した。
「ひとつだけ、お尋ねしてもよろしいですか」
「はい」
「あなたは、どんな未来を、望んでおられますか」
——
その問いを口にしたとき、西原さんは目を、すこしだけ見開いた。
それから、口を、半分ほど開いた。
何かを言おうとして、けれどそこから先の言葉が続かなかった。
「私、は」
「ええ」
「私、は——」
そこで、彼の言葉がふっと止まった。
——
窓の向こうで、青もみじの葉が一枚、風に押されてゆっくり位置を変えた。
「先生」
長いあいだのあとで、西原さんが、ようやく顔を上げた。
「私、たぶんそこをずっと考えないようにして生きてきました」
「ええ」
「『彼女との未来』のことばかり、考えてきたんです。彼女が会社をいつ辞めるか、お子さんが大学に行ったあとに二人でどう暮らすか、そういうことばかりを」
「ええ」
「自分の未来というのは、いつのまにか、そのなかに溶けていて」
——
私は黙って、頷いた。
「『私はどう生きたいか』を、自分のなかにいちど、置いていなかったんです」
「ええ」
「彼女の人生のほうに、自分の人生を、貼り合わせてきたつもりでいて」
「ええ」
「その貼り合わせのなかには、ほんとうの私は、いなかったのかもしれません」
その声は、静かだった。
——
「先生はどうして、それをいま聞いてくださったんですか」
しばらくしてから、西原さんが言った。
「西原さんが、彼女のお話ばかりを、なさっていたからです」
「ええ」
「彼女のことを大事に思っていらっしゃる、そのお気持ちはもう十分に伝わってまいりましたから」
「はい」
「あとは、その気持ちと同じ重さでご自分のこともお置きになる時間があってもよろしいんじゃないかしら——そう思いまして」
西原さんは、しばらく、自分の膝のあたりに目を落としていた。それから、ゆっくり頷いた。
「同じ重さで、置く」
「ええ」
「そうですね」
外の青もみじの上を、薄い雲が一枚、流れていった。
私は、もうひとくち、コーヒーに口をつけた。








