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彼女に毎月十万渡しています ②

本作のあらすじ

「先生」——

朝の哲学の道で、ひとりの五十代の男性がたま先生に声をかけてきた。同じ会社のシングルマザーの女性と、五年。秘密の関係、毎月の援助、そして近頃気になりはじめた彼女の振る舞い。

大阪から始発で京都へやって来たその人は、雨上がりの紫陽花の路を、たま先生と並んで歩きはじめる。

男の声で、ようやくこぼれてきたその話に、たま先生は何を返すのだろうか——

→ 第1話から読む

哲学の道を、私たちは並んで北に向かって歩いていた。

歩く速さを、私は西原さんに合わせていた。彼の歩幅は、思っていたよりも狭かった。考えごとの長さに合わせて、足の運びも長くなる人なのだろう。コーヒーのカップを左手から右手に持ち替えるとき、それだけで一拍、歩みが止まった。

「先生」

「はい」

「私、同じ会社にお付き合いしている方が、おりまして」

「ええ」

「年は、向こうが四十代の半ばで、私は五十代に入ってからずっとです」

「ええ」

「もう、五年に、なります」

——

その「五年」という数字を、西原さんはまっすぐ前を見たまま、口にした。

道の脇の苔のうえに、雨上がりの光が、薄く落ちていた。私はその光のほうへ、いったん視線を逃がした。話のいちばん最初の数字を、相手の顔のほうから見つめてしまうと、その数字の重さが本人にあらためて返ってしまう。長く隣を歩く相談だからこそ、目はときどき、別のところに置いておく。

「向こうが、シングルマザーでして」

「ええ」

「お子さんは、もう、高校生なんです。男のお子さんがおひとり」

「そうですか」

「女手ひとつでお育てになって、大変だったと思います。私が知り合った頃は、まだ中学生でしたから」

——

水路のうえに、青もみじの影が一枚、ゆっくりと位置を変えた。

「お付き合いは、社内の方には」

「内緒で、続けてきました」

「ええ」

「『仕事がやりづらくなるから、誰にも言わないでほしい』って、向こうが」

「ええ」

「私もそれに、五年、合わせてきました。会社の中では、目を合わせる程度のあいさつしか、しません」

「ええ」

「外で会うのは、月に二度か、三度です。だいたい、彼女のお子さんが部活でいない週末か、塾の日の夜です」

——

私は、相づちのほかには何も挟まなかった。

口を挟むと、彼の中でようやく順番に並びはじめた言葉が、また散らばってしまう。先に並べていただいて、それから私が拾う。長い相談のときの、私のなかの基本の動き方だった。

「ご相談者様、ご結婚は、なさっていらっしゃいますか」

「いえ」

西原さんは、首を横に振った。

「私は、ずっと一人です。両親はもう亡くなって、兄が大阪のほうにおりますけれど、ほとんど会いません」

「そうですか」

「だから余計に彼女と、お子さんのことを自分の家族のように思ってきたところがあります」

——

彼の口から「家族のように」という言葉が出たときに、私は、彼の足元のほうへ目を移した。

革靴の先のほうが、夜の雨でほんの少し色を変えている。その先を、彼は一歩、また一歩と運んでいた。家族のように思ってきた——そう語るときの足の運びには、「ように」のあたりに本人がまだ言葉にしていない迷いがあった。

「ご援助のような、ことも」

西原さんが、自分のほうから付け加えた。

「ええ」

「毎月、決まった額を、彼女の口座に入れています」

「ええ」

「お子さんの学費の足しにと思って、はじめたんです。彼女が会社の事務のお給料だけで二人暮らしを回しているのを見ていたら、自分のところでお金が浮く分くらいは、と」

「ええ」

「最初は、年に何度かでした。それがいつのまにか、毎月になりました」

「金額は、お決まりで」

「彼女の口座に、自動で振り込むようにしてあります。私のほうから何かを言うことは、ありません」

「ええ」

「向こうも最初の頃は、お礼のメッセージをくださっていたんですけれど。ここ二年くらいは、特には」

——

歩道の脇のベンチの脇を、私たちは静かに通り過ぎた。

ベンチのうえには、雨を受けたあとのプラタナスの葉が一枚、まっすぐに張りついていた。その葉のうえを、薄い陽がいま、ようやく届きはじめていた。

「お礼を求めて、振り込んできたわけでは、なかったんです」

西原さんが自分の言葉に、自分でひと足を補った。

「ええ」

「ただ、なくなって気づいたのは、そういう短いひと言が以前はあったということで」

「ええ」

「気づいてしまうと、こちらも何かが、すこしずつ薄らいで」

私はうなずいた。「気づいてしまうと」というその言い方を、私のなかにそっと預かった。

——

「相思相愛だと、思っていたんです」

西原さんが、低い声で言った。

「私が彼女を大事に思っているのと同じくらい、彼女も私のことを大事に思ってくれているんだろうと」

「ええ」

「五年というのは、そういう時間だと、私のほうが信じてしまっていました」

そこで、彼の歩みが、ふっと止まった。

水路の流れの音が、二人のあいだにいったん入ってきた。

「ところが、最近」

西原さんが、コーヒーのカップを両手で握り直した。

「彼女の様子に、私のほうが気がつくことが出てまいりまして」

私はうなずいた。

「歩きながらでも、お話、続けてくださいね」

「はい」

水路に沿って、私たちはまた、ゆっくりと歩きはじめた。

紫陽花の蕾のひとつが、私の肩のあたりで、灰色のなかにわずかな青を覗かせていた。

本作「彼女に毎月十万渡しています」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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