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彼女に毎月十万渡しています ①

本作のあらすじ

「先生」——

朝の哲学の道で、ひとりの五十代の男性がたま先生に声をかけてきた。同じ会社のシングルマザーの女性と、五年。秘密の関係、毎月の援助、そして近頃気になりはじめた彼女の振る舞い。

大阪から始発で京都へやって来たその人は、雨上がりの紫陽花の路を、たま先生と並んで歩きはじめる。

男の声で、ようやくこぼれてきたその話に、たま先生は何を返すのだろうか——

雨が、夜のうちにやんでいた。

哲学の道のほうへ、私は六時を少し回った頃に家を出た。今朝のラジオは月曜の特別収録にあたっていなくて、午前のあいだは何の用もなかった。雨上がりの土の匂いが、まだ強く残っている時間に歩きたかったのだ。

水路の脇の桜の枝は、葉ばかりになっている。葉のひと枚ひと枚に、夜半の雨の粒がまだ載っていた。風が抜けるたびに、その粒がぱらぱらと落ちて、道のうえに濃い水玉をつくった。脇の生垣の根元には、紫陽花の蕾が灰色の塊のままで、まだ青を持ってきていない。ところどころ、いちばん早いひと株だけが、薄く水色を覗かせていた。

雨上がりの哲学の道は、観光の人がほとんどいない。早朝のこの時間に歩いているのは、近所のお年寄りの散歩か、犬を連れた人くらいである。水路を流れる音が、いつもより少しだけ大きかった。山のほうで吸いきれなかった雨の名残が、まだ流れに加わっている時間なのだろう。

私は、ゆっくり歩いた。京都の六月が紫陽花の青を持ちはじめるまでには、もうあと数日いる。その数日のあいだの朝が、私はいちばん好きだった。空の色がまだ夜の青を残している。足元の石畳には湿りの黒が広がっていて、歩くたびに自分の靴の音だけが背中のうしろに残る。そういう数日が、年に一度だけある。

——

ゆっくり歩いていると、向こうから、男の人がひとり歩いてくるのが見えた。

濃いグレーのスラックスに、半袖のシャツ。手にコンビニのコーヒーを下げている。革靴の先のほうが、夜の雨に少しだけ濡れていた。歩き方は、目的地に向かって歩いている人のものではなかった。一歩のあいだに半歩を挟むようにして、自分のなかで何かを並べ替えている人の歩き方だった。

すれ違うときに、その人は私の顔を見て、半歩だけ進路を逸らせた。それから、足を止めた。

「あの」

低い声だった。喉のいちばん下のほうから、無理して引っ張り上げてきたような声だった。

「先生」

「はい」

私は、足を止めた。

「すみません、こんな朝早くに。中森先生で、いらっしゃいますよね」

「はい。中森です」

その人はいったん、コーヒーのカップを両手で持ち直した。それから一度、深く頭を下げた。

西原にしはらと、申します」

——

西原さんは、五十代の半ばに見えた。

髪のところどころに白いものが混ざっていて、けれど染めているのではない、自然な混ざり方だった。眉のあたりに長くひそめてきた皺が、消えないまま残っている。「優しそう」というよりは、「人にものを断れないでここまで来た」種類の顔だった。

「先生のことは、ラジオで」

そう言って、西原さんは息を吐いた。

「ずっと、聞かせてもらっていました」

「ありがとうございます」

「先月の放送を聞いていて、いつかどこかで会えたらと思っていたんです。けれど自分のような者が直接お会いするのは、おこがましいなとも思って」

「いいえ」

「今朝、思いきって、京都まで来ました。家を、始発で出ました」

——

私は、西原さんの足元のコーヒーのカップに、いちど目を落とした。

買ったばかりの、コンビニのものだった。フタの口から、湯気がほんの少しだけ立っている。京都駅で買って、ここまで持ってきたのなら、あの湯気はもう冷えかけているだろう。それでも両手のひらでそれを握り直した、その指先の白さに、私は西原さんがここまで歩いてきた時間の長さを見た。

「こちらに、いらっしゃるとは存じあげずに」

「お電話するほどのことではないですし、お申込みすることでもないのかもしれない、と」

西原さんは、自分のつま先のあたりに、目を落とした。

「自分のなかで、整理がつかなくて」

「ええ」

「それで、駅から、ここまで歩いてきました」

——

水路の向こうの土塀の上を、雀が三羽、続けて飛んでいった。

私はゆっくり、首をすこし傾けた。

「西原さん」

「はい」

「コーヒー、まだあったかいですか」

西原さんは、自分の手のなかのカップを見て、それからすこしだけ首を傾げた。

「いえ。買ってから、もう一時間ほど経ちますから」

「そうですか」

「京都駅で買って、ずっと、片手に持ってきました」

「捨てる場所を、お探しになりましたよね」

西原さんが、ふっと息を吐いた。今朝はじめての、力の抜けた息だった。

「自販機の脇のゴミ箱に、二度、寄ったんです。けれど、なんとなく、捨てられなくて」

「ええ」

「これを捨てたら、自分が何のためにここまで歩いてきたのか、いっぺんに分からなくなりそうで」

私は、そっとうなずいた。

——

「西原さん」

「はい」

「ご一緒に、しばらく歩きましょうか」

その提案に、西原さんは目を上げて、それからもう一度頭を下げた。

「ありがとうございます」

「南禅寺のほうから、銀閣寺の方へゆっくり歩く道があるんです。途中、若王子のあたりに、座って話せる店もあります」

「はい」

「歩きながらでも、お話、聞かせてくださいね」

西原さんは何も言わずに、ただひとつ頷いた。

私たちは並んで、北のほうへ歩きはじめた。

水路のなかを、雨上がりの水が、いつもより少し速く流れていた。

本作「彼女に毎月十万渡しています」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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