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息子は私のお弁当しか食べません ⑤

本作のあらすじ

「息子のお弁当を、私が作らないとご飯を食べないんです」——

京都・寺町通りの古い純喫茶に、ひとりの母親がやってくる。高校生の息子は、母が用意しなければご飯に手をつけない。

手をかけることを愛だと信じてきた母親の声は、いつしか自分でも止められない場所まで来ていた。

沈黙のなかで、母はようやく自分の輪郭に触れていく——

→ 第1話から読む

私たちが純喫茶を出たのは、午後の六時を回ったころだった。

寺町のアーケードは、ほとんどの店がもうシャッターを下ろしていた。アーケードの天井は、日没のあとの空のいちばん深い青を、まだ少しだけ通していた。

「地下鉄の駅まで、ご一緒しますね」

「ありがとうございます」

——

北野さんは、歩きながらはほとんど何も言わなかった。

ときどき、鞄の持ち手をそっと指で握り直していた。それが、あの長い沈黙の続きの動作のように私には見えた。私は隣で何も言わずに、北野さんの歩く速さに自分の歩幅を合わせていた。

——

地下鉄の入り口の前で、北野さんは、私に向き直った。

「先生」

「はい」

「今日、ありがとうございました」

「いえ。お話、聞かせていただいて、こちらこそ、ありがとうございました」

「……」

「あの子のお弁当のお話を、私、誰にもしたことがなかったんです」

「ええ」

「ばかげた話やと、自分でも思っていたので。誰かに言うていうこと自体が、できませんでした」

「ばかげてなんか、いませんよ」

私は、首を、ゆっくり横に振った。

——

「北野さん」

「はい」

「ご自宅に帰られて、すぐに何かを変えなくて、いいんですよ」

「ええ」

「あの子が大学にいかれるまでは、まだ、しばらくありますね」

「来年の三月までです」

「そのあいだに、今日ご自分のなかで動いたものを、お母さまのお歩きになりたい速さで、ゆっくりと進めてくださったらいいんです」

「はい」

「いますぐ、お弁当をやめなくても」

「……」

「いますぐ、夜中の二時の台所をやめなくても」

「……」

「やめる日を見極めるのは、北野さんご自身ですから」

——

北野さんは、ハンカチを、もう一度、ぎゅっと握った。

「先生」

「はい」

「私、来年の春に、あの子が家を出ていく日を」

「ええ」

「ちゃんと見送れる母親でいたいです」

その声は、低く、けれどはっきりとした、はじめての声だった。

私は、ゆっくりと頷いた。

「北野さんは、見送れますよ」

「……」

「もう、見送るための準備を始めていらっしゃいますから」

——

北野さんは、深く頭を下げた。

「お気をつけて」

「はい。先生も、お気をつけて」

地下鉄の階段を下りていく、北野さんの背中を、私はしばらくのあいだ見送った。

その背中は、来たときよりも、ほんのすこしだけ、自分の重さを自分で持って歩いているように、私には見えた。

——

バスに乗って、四条のあたりで降りた。「をぐら」の提灯が、いつもの路地の奥でぼんやりと揺れていた。

暖簾をくぐると、客が二人、カウンターの手前に座っていた。私はいつもの奥の席に腰かけた。

「おお、たまちゃん。今日も、ご苦労さん」

「いつもの、お願いします」

ほうじ茶の湯呑みが、しばらくして私の前に置かれた。

——

「ザキ姉ちゃん」

「ん」

「お母さんって、難しいね」

「あんた、なんやの、急に」

「今日な、ようけ手をかけて育ててきはったお母さんのお話、聴いてきた」

「ふうん」

ザキ姉ちゃんはカウンターの内側で、布巾を絞りながら、こちらをちらっと見た。

「子離れ、いう話か」

「うん。お弁当のお話」

「ああ」

ザキ姉ちゃんは、湯葉の煮浸しの小鉢を、私の前に置いた。それから、菜の花のおひたしも、もうひとつ並べてくれた。

「うちの母も、そうやったわ」

——

「ザキ姉ちゃんのお母さんが?」

「うん。私が高校卒業して、家、出ていく言うたとき。母な、私のお弁当箱、そのあと一年くらい毎晩食器棚から出してきて、ピカピカに洗ってまた棚にしまうんやって。父があとで教えてくれた」

「……」

ザキ姉ちゃんは、グラスを並べ直しながら、小さく笑った。

「あの世代のお母さんはな、たまちゃん。手のひら以外で愛情、表す方法、教わってないんやで」

——

私は、ほうじ茶を、ゆっくりと口に含んだ。

「ザキ姉ちゃん」

「ん」

「今日、お母さんがな、自分の手のひらを、自分でじっと見てはった」

「ほう」

「『この手を、何に使うんでしょうか』って、自分の手のひらに、そう聞いてはった」

「……」

「私な、その問いに、まだ、答えはあげてない」

「ふうん」

ザキ姉ちゃんは、それ以上、何も言わなかった。

代わりに、湯呑みのおかわりを、もうひと注ぎしてくれた。

——

「あんたの仕事はな、たまちゃん」

「うん」

「お母さんに、お母さん以外の名前があるていうことを、思い出してもらう仕事や」

「……」

「子離れの話やない。あの世代のお母さんに、もう一回、自分の名前を、自分の口で呼んでもらう仕事や。違うか」

私はしばらく、湯呑みの縁に指をかけたまま動かなかった。

ザキ姉ちゃんのこういう言葉が長い一日のいちばん最後にふっと、私の体のなかに落ちてくる時間。私はその時間が好きだった。

「そうかもしれん」

——

カウンターの手前の客が、お会計を済ませて出ていった。提灯のあかりが、店の障子を内側から橙色に染めていた。

「ザキ姉ちゃん」

「ん」

「あの方な、来年の春、ちゃんと息子さんを見送れるかな」

「見送るやろ」

ザキ姉ちゃんは、すっぱり言った。

「『見送れるかな』って、たまちゃんに言うてはったんやろ」

「うん」

「言えた人は、見送れるんや。見送れん人は、そもそもそんな言葉、出てこんもんや」

——

私はその言葉を、しばらくのあいだ自分のなかに置いていた。

外では、京都の五月の終わりの夜が、路地の奥でしずかに更けはじめていた。私は湯葉の煮浸しをひと口、口に運んだ。出汁の温かさが、舌のうえでゆっくりとほどけていった。

来年の春、北野さんが九州行きの新幹線のホームに立つ日。北野さんはたぶん息子さんに大きな声をかけずに、自分の手のひらをポケットにそっと収めて見送るのだろう。

——見えるところまで、北野さんはご自分で来られていた。

ザキ姉ちゃんは、また別のグラスを布巾で拭きはじめていた。

本作「息子は私のお弁当しか食べません」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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