本作のあらすじ
「息子のお弁当を、私が作らないとご飯を食べないんです」——
京都・寺町通りの古い純喫茶に、ひとりの母親がやってくる。高校生の息子は、母が用意しなければご飯に手をつけない。
手をかけることを愛だと信じてきた母親の声は、いつしか自分でも止められない場所まで来ていた。
沈黙のなかで、母はようやく自分の輪郭に触れていく——
寺町通りの古い純喫茶は、商店街のアーケードを少し外れた、細い路地の入り口にある。
昭和のころから店構えはほとんど変わっていないという。木枠の硝子戸を押すと、内側の空気のほうが少しだけ重く、こちらをそっと迎えてくれる。煙草を吸う客はもういない。それでも、長く吸われてきたものの匂いだけは、壁紙の奥に静かに残っている。
私が約束の十五分ほど前に着くと、北野さんはすでに、いちばん奥の席に座っていた。
——
会釈を交わした。
「お早いんですね」
「すみません。落ち着かなくて」
「いえ、こちらこそ、お待たせしてしまって」
向かい合って座った。テーブルの天板には、長い年月で磨かれた飴色の艶があった。窓は格子で仕切られていて、夕方の陽がそのあいだから細かく差し込んでいる。
北野さんは、紺の半袖のブラウスに、グレーのスカートだった。バッグは膝のうえで両手で抱えるように持っている。化粧は薄く、髪はうしろでひとつにきっちりまとめてある。「身ぎれいにしている」というよりは、「ほどけることをご自分に許していない」——そんな佇まいだった。
私はマスターに、コーヒーをふたつ、ブレンドで頼んだ。
カップが運ばれてくるあいだ、二人とも何も言わなかった。
——
コーヒーがテーブルに置かれた。
北野さんは、砂糖もミルクも入れずに、ひと口だけ含んだ。それから、カップを置いて、両手をまたバッグの上に戻した。
「先生」
「はい」
「昨日は、急にすみませんでした」
「いいえ。お会いできて、よかったですよ」
「……」
「ゆっくり、お話、聞かせてくださいね」
北野さんは、小さく頷いた。けれど、すぐには口を開かなかった。
私は、自分のカップに目を落とした。ブラックのコーヒーの表面に、店の天井のシャンデリアが、小さな丸い光になって映っていた。
——
しばらくの沈黙のあと、北野さんが口を開いた。
「うちは、息子と二人なんです」
「ええ」
「下の子はもう独立して。上が、いま高校三年生です」
「お一人で、育ててこられたんですか」
「主人とは、上の子が中学生の頃に別れました。籍はそのまま、しばらく続けていたんですけれど。離れて暮らすことに決めて、もう五年ほどになります」
「そうですか」
北野さんは「主人」という言葉を、どこか他人事のような言い方で口にした。長く同じ言葉を使ってきて、けれどその言葉のなかみは、いつのまにか自分の手のひらから抜けていた——そういう響きだった。
——
「先生」
「はい」
「昨日のメッセージ、お読みになっていただいたと思うんですけれど」
「はい」
「あれは、ほんとうのことなんです」
私は何も言わずに、頷いた。
「あの子、私が作らないと、本当に食べないんです」
「ええ」
「お腹が減ったら、コンビニに行くとか、自分でカップ麺を作るとか、そういうことができないわけじゃないと思うんです。だって、もう十八ですから」
「そうですね」
「でも、あの子は、それをしないんです」
北野さんはそこまで言って、コーヒーカップに、もう一度指をかけた。けれど持ち上げずに、そのまま指の先だけを、カップの縁にゆっくり這わせていた。
——
「最近、こんなことがあったんです」
「ええ」
「私、二日続けて夜勤がありまして。介護のお仕事をしていて、ときどき、夜のシフトが入るんです」
「ええ」
「そういう日は、お夕飯を朝のうちに作って、冷蔵庫に入れておきます。レンジで温められるように、お皿もラップしておいて。お弁当箱も、息子が翌朝学校に持っていけるように、前の晩から用意しておきます」
「丁寧にされているんですね」
「はい」
北野さんは、そこで小さく息を吐いた。
「でも、夜勤明けに帰ってくると、冷蔵庫のお皿は、ラップがかかったまま、そのまま残っているんです」
「……」
「あの子、お腹が減ってないわけじゃないんです。台所のテーブルに、菓子パンの袋とか、コンビニのおにぎりの袋とかが、きちんと畳んで置いてあるんです」
「では、別のものを召し上がっているんですね」
「はい」
「それが、お母さまの作られたものだと、召し上がらないんですね」
「いえ、ちがうんです、先生」
——
北野さんが、はじめてはっきりと、首を振った。
「『私が作ったものを食べない』のではなくて、『私が、その場で出したものでないと、食べない』んです」
「『その場で』、ですか」
「はい。私が温めて、私がお皿に盛って、私が『どうぞ』って言って、お箸を渡して。そこまで揃わないと、あの子は、手をつけないんです」
私は、すぐには言葉を返さなかった。
格子の窓から差し込む光が、北野さんの手の甲のうえに、細い縞模様を落としていた。指の先がほんのすこしだけ、カップの縁から離れた。
——
「先生」
北野さんが、こちらをまっすぐに見た。
「変、ですよね」
その問いに、私はすぐに答えなかった。
「変」と言ってもらいたいわけでも、「変じゃない」と言ってもらいたいわけでもないのだろうと、私は思った。北野さんが私の前に置いてくださったのは、そのどちらの答えでもない、もっと別の場所にある言葉だった。
私はコーヒーカップを、両手でそっと持ち上げた。湯気はすでに、ほとんど立っていなかった。
外では、寺町の商店街のアーケードに、閉店時間を知らせる音楽が、薄く流れはじめていた。
その音楽は、北野さんと私のあいだに、ひと枚の幕のように静かに降りてきた。








