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息子は私のお弁当しか食べません ①

本作のあらすじ

「息子のお弁当を、私が作らないとご飯を食べないんです」——

京都・寺町通りの古い純喫茶に、ひとりの母親がやってくる。高校生の息子は、母が用意しなければご飯に手をつけない。

手をかけることを愛だと信じてきた母親の声は、いつしか自分でも止められない場所まで来ていた。

沈黙のなかで、母はようやく自分の輪郭に触れていく——

カウンターのいちばん奥に、私はもう三十分ほど座っていた。

「をぐら」は夕方の早い時間で、客はまだ私ひとりだった。提灯の明かりが、障子を内側からぼんやりと染めている。尾崎おざきさんは流しの前で、小鉢の縁を布巾で拭いていた。尾崎さんは、私が二十代に勤めていた会社の少し年上の先輩で、長く「ザキ姉ちゃん」と呼ばせていただいている、私のいちばん古い友人だった。出汁の匂いが、店の奥から薄く漂ってくる。

「たまちゃん、今日はえらい、静かやな」

「そう?」

「うん。お茶もまだ、ひと口しか飲んでへんやろ」

私は手元の湯呑みに、はじめて目を落とした。ほうじ茶の表面に、私の顔がぼんやりと映っていた。たしかに、まだ温かいままだった。

「ちょっと、考え事してた」

「ふうん」

ザキ姉ちゃんはそれ以上、何も訊かなかった。代わりに、奥の鍋から湯気をひと筋立てて、椀をふたつ温めていた。

——

スマホが、膝のうえで小さく震えた。

メッセージの着信通知だった。差出人は、北野きたのさんという女性。これまでに二度ほど、画面越しにお話を聞いてきた方である。京都市内に住んでいらっしゃると、最初のセッションで聞いていた。

文面は、短かった。

「先生、突然のご連絡ですみません」

「息子のお弁当を、私が作らないとご飯を食べないんです」

「明日、もし少しだけでも、お時間をいただけませんでしょうか」

——

私は、湯呑みを置いた。

画面のなかの三行を、私はしばらく眺めていた。文字そのものは、強い言い方ではなかった。けれどその短さの裏側に、長く誰かに言いたかった言葉をようやく一度だけ口に出してみた、という気配があった。

二度のセッションで聞いてきた北野さんの声を、私は思い返してみた。穏やかで、丁寧で、自分の話よりも家族の話を先にされる方だった。「私のことよりも、息子のことなんですけれど」と何度もくり返されて、こちらが「では、北野さんご自身のお話も少しだけ」と引き戻すような相談者さんだった。

その方からの、明日、という言葉である。

私は指を、画面のうえに置いた。

「明日の夕方、寺町通りの純喫茶でお会いしましょうか」と書きかけて、いったん消した。「夕方」という言葉が、いまの北野さんに重く届きすぎる気がした。学校から帰ってきた息子さんが、夕飯を待っているかもしれない時間である。

少し迷ってから、私はこう打ち直した。

「明日の四時、寺町通りの古い純喫茶で、お待ちしています」

送信ボタンを押した。

返信は、思っていたより早かった。

「ありがとうございます。うかがいます」

短い一文だった。けれど、長い廊下のいちばん奥から駆けてきた人の息のような速さが、その文字には宿っていた。

——

「たまちゃん」

ザキ姉ちゃんが、椀を私の前に置いた。

「今日はな、空豆の擦り流しやで。あんた、好きやろ」

「ありがたい」

椀を両手で受け取った。手のひらに、温度がじんわりと伝わってきた。

「今日は、お酒なしか」

「うん。明日が長くなりそうやから」

「そうか」

ザキ姉ちゃんはまた、それ以上は何も訊かなかった。聞かないことが、いちばんの仕事になる時間がある——それを、ザキ姉ちゃんは知っている。

私は擦り流しを、ひと匙、口に運んだ。空豆の青い香りが、舌のうえでほどけていく。

——

「明日、長いお話、聞いてくる」

私はそう、独り言のように言った。

「ふうん」

「お弁当を、自分でようつくれへん子のお話」

「高校生か」

「そう。よう、わかったね」

「『お弁当』って言うたから、まあ、そんなとこやろなと思って」

ザキ姉ちゃんはグラスを並べ直しながら、こちらをちらと見た。

「たまちゃん。あんたの仕事は、ほんま、世のお母さんを助ける仕事やね」

「助けてはないよ」

「ほな、なんなん」

私は、空豆の椀を膝のうえに置いた。

「お母さんがな、自分の手のひらを、自分でひと回りでも見直せるようになる、そのお手伝い」

ザキ姉ちゃんは、ふっと笑った。それから、グラスを並べ直す手を止めずに、こう言った。

「カッコつけんと、はよ食べ。冷めるで」

——

店を出たのは、夕方の七時を少し回った頃だった。

寺町の街は、もう半分くらい店じまいに入っていた。古本屋の主人が、表のワゴンを店のなかへ引き入れている。乾物屋の暖簾が、ひと足先に下ろされていた。

私はゆっくりと、商店街のアーケードの下を歩いた。五月の終わりの夕方は、京都の街にしては陽が長い。アーケードの天井を抜けてくる光が、敷石のうえに細かい網目を落としていた。

明日、もう一度、ここを歩く。

そう思いながら、私はアーケードを抜けた。

提灯の明かりが、しばらくのあいだ、私の背中のほうで揺れていた。

本作「息子は私のお弁当しか食べません」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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