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右目が二重に見えるんです ⑤

本作のあらすじ

「右目が、二重に見えるんです」——

関西の街から京都まで、ひとりの四十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。

薬の効かない目の不調と、二年続いている誰にも言えない関係。「これは、罰ですよね」とつぶやいた数ヶ月前のメッセージから、季節は梅雨に入っていた。

龍安寺の石庭の縁側で、たま先生はその「罰」という言葉に、何を返すのだろうか——

→ 第1話から読む

縁側の板のうえに、私たちはあとしばらく、並んで座っていた。

桐原さんはもう何も問われなかった。私も何も付け足さなかった。石庭の十五個の石は、どこから見ても必ず一つだけ隠れて見えると言われている。隠れているものを無理に見せようとしないその作りが、いま私たちの座っているかたちと、どこかで重なっていた。

「先生」

しばらくして、桐原さんが、口を開いた。

「そろそろ、まいります」

「ええ」

「東京駅まで、もう一度、新幹線で帰ります」

——

桐原さんは縁側の端に手をついて、ゆっくりと立ち上がられた。

立ち上がるときにいちど右目のあたりを軽く瞬きされた。それから姿勢を整えて、こちらに頭を下げてくださった。

「先生。今日は、本当にありがとうございました」

「いえ。お疲れになったでしょう」

「いえ。来るときよりも、頭のなかが、すこしすっきりしている気がします」

桐原さんは、ふっと、目の縁のあたりだけで笑った。

——

私たちは、石庭の縁側を離れて、寺の出口のほうへゆっくり歩いた。回廊の柱のあいだを抜けるたびに、苔の匂いが、足元からふっと立ちのぼってくる。

「先生」

「はい」

「眼科は、引き続き、かかります」

「ええ。それは、続けてくださいね」

「お薬も、ちゃんと、飲みます」

「ええ」

「それと、『罰』っていう言い方を、しばらくは、ご自分の中で使わないでみますね」

「ええ」

「『罰』のかわりに、何の言葉を置けばいいかは、まだ、ちょっと、分かりません」

「いいんですよ。お言葉が見つからない時間も、ご自分にとっては、たぶん、大事な時間ですから」

「ええ」

——

桐原さんは、寺の門の少し手前で、立ち止まった。

「先生」

「はい」

「もうおひとりの方のことは、まだ、決められません」

「ええ」

「『よくない』って思いながら続けてきたお気持ちのことも、まだ、整理しきれていません」

「ええ」

「でも、整理しなきゃいけないのに整理できない、っていう焦りは、すこしだけ、軽くなりました」

「ええ」

——

私は、桐原さんに頷いた。

「桐原さん」

「はい」

「ご自分のなかから出てくる『お知らせ』を、もうしばらく、桐原さんがご自分の手で受けていらしてくださいね」

「はい」

「右目のことも、もうおひとりの方のことも、ご自分のお身体のお知らせと一緒に、急がずに見ていただけたらと思います」

「はい」

「お身体、くれぐれも大事になさってくださいね」

「ありがとうございます」

——

桐原さんは、もう一度頭を下げて、寺の門を出ていかれた。

ベージュのカーディガンの背中が、参道の青もみじのあいだを、ゆっくりと小さくなっていく。途中で振り返られないかと思ったけれど、振り返られなかった。長く考えてきたものをご自分のうちで一度持ち直したい人の、まっすぐな歩き方だった。

私はその背中を、しばらく見送った。

——

桐原さんの背中が見えなくなってから、私は、寺の門のほうへは戻らずに、境内を反対のほうへ歩いた。

鏡容池のまわりを、ゆっくりと回ることにした。

雨上がりの梅雨の合間の、午後三時を少し過ぎた頃である。睡蓮の葉のうえの雫は、午前のときよりは、もうほとんど残っていなかった。葉の縁が、すこしだけ風に持ち上げられて、また戻る。風が通るたびに、池の表面のいちばん上のところに、薄い波がいちめん、ゆっくりと立っていた。

——

歩きながら、私は、桐原さんの「罰」という言葉のことを、もう一度、思い返してみた。

罰という字を、ご自分の身体のうちがわで使う人を、私はこれまでにも何度か見てきた。けれど桐原さんは、その字をいったんご自分の外に置こうとしてくださった。「使わないでみる」と、ご自分の口でおっしゃった。

罰、とご自分を縛り続けることをやめたあと、どんな言葉が立ちのぼってくるのか。その速さを、私の側からは、決して急がせてはいけない。

——

池のほとりのベンチに、いったん腰を下ろした。

しばらく、池の向こうの新緑の山のほうを、見ていた。

雨上がりの空の雲が、山の稜線のうえで、ゆっくり位置を変えていた。雲の隙間から差してくる光が、池の表面に、ほんの一筋だけ、明るい帯になって落ちる。その帯のかたちが、見ているうちに、形を保ったまま少しずつ、向こう岸のほうへずれていった。

ベンチのうえで、私は、自分のひざのうえに両手を置いた。

桐原さんと並んで座っていた縁側の板の温度を、自分の手のひらが、まだどこかでうっすらと覚えていた。

——

二十代の頃、私もまた、自分の身体のいちばんわかりやすい場所に、いくつかの「お知らせ」を出させていた。あのときの私はそれを「お知らせ」と呼べなかった。「だらしがなかったから」「まだ努力が足りないから」と、自分のなかで短く片付けていた。

長い時間がかかって、ようやく、お身体の声をお知らせとして受けられるようになった。京都に戻って東洋医学の本を一冊ずつ開きながら、自分の中で言葉が変わっていったのだった。

桐原さんも桐原さんの速さで、その「罰」のかわりの言葉を、ゆっくり探していかれるだろう。

——

ベンチから立ち上がって、もう一度、池のまわりをゆっくり歩いた。

参道の砂利を踏むと、足元から、雨上がりの土の匂いがふっと立ちのぼった。同じ場所を二度歩くというだけのことで、心のなかの位置がほんのすこし、変わって戻ってくる。

——

山門の手前で、私はいちど立ち止まった。

その日は、ここからどこにも寄らずに、まっすぐ家に帰ろうと思った。誰かと話してその時間を軽くしてしまう前に、ひとりで電車に揺られて、もうしばらく温めていたかった。

——

風が、また一筋、参道の青もみじのあいだを抜けた。

葉のうえに残っていた最後の雫が、いくつか、ふっと地面に落ちた。

その音だけが、私のすぐそばで、しずかに残った。

本作「右目が二重に見えるんです」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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