本作のあらすじ
「右目が、二重に見えるんです」——
関西の街から京都まで、ひとりの四十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
薬の効かない目の不調と、二年続いている誰にも言えない関係。「これは、罰ですよね」とつぶやいた数ヶ月前のメッセージから、季節は梅雨に入っていた。
龍安寺の石庭の縁側で、たま先生はその「罰」という言葉に、何を返すのだろうか——
「私、自分の口で『罰』って、言ってしまいましたね」
桐原さんがそうおっしゃってから、私たちは、しばらく何も言わなかった。
縁側のうえに、午後の光が、また少し角度を変えて落ちていた。雲のかたちが空のうえで動いているのが、白砂のうえの影の動き方で、こちらに伝わってくる。光と影のさかいめが、ゆっくりとひとつ、また、位置を変えた。
「桐原さん」
「はい」
「ひとつだけ、桐原さんにおうかがいしてもいいですか」
「ええ」
——
私はゆっくり、息を吸った。
「桐原さんがいまおっしゃった『罰』という言葉は、桐原さんのなかでは、どういう意味のある言葉ですか」
「と、おっしゃると」
「『罰』という言葉を、桐原さんはずっとご自分のなかでお使いになってきました。最初のメッセージにも『罰でしょうか』と書いてくださいました。きょう、こうして並んで座っているあいだも、ご自分でその言葉を、何度か口にされましたね」
「ええ」
「桐原さんにとって『罰』というのは、どういうかたちをしたものでしょうか」
——
桐原さんは、そこで、すこし黙った。
「かたち、ですか」
「ええ」
「私のなかにある『罰』のかたち」
桐原さんは、ご自分のひざのうえで、もう一度、両手を組み直された。
「『悪いことをしたら、何かが取り返しのつかないかたちで、奪われていくこと』、でしょうか」
「ええ」
「右目が、戻らないかもしれないこと」
「ええ」
「もしかしたら左目も、いずれそうなるかもしれないこと」
「ええ」
「私が長く積みあげてきたものが、ぜんぶ、ばらばらと崩れていくかたち」
「ええ」
「それが、私のなかの『罰』のかたちです」
——
私はゆっくり、頷いた。
それから、もう一度、息を吸って、ゆっくり吐いた。
「桐原さん」
「はい」
「私のところでは、桐原さんのいまのご関係について、よいとも悪いとも、申し上げないんですよ」
「ええ」
「桐原さんの『罰』について、私から罰のあるなしをお答えすることも、できません」
「ええ」
「私が桐原さんと、ご一緒に置きたい言葉は、たぶん、もうひとつ別の言葉なんです」
——
「もうひとつ別の言葉」
桐原さんは、その私の言い方を、ゆっくり、ご自分の口で受け取り直された。
「『因果』という言葉を、聞かれたことはありますか」
「はい。よく、聞きます」
「桐原さんのなかで『因果』は、どんな言葉ですか」
——
桐原さんは、そこで、また少し考えた。
縁側の板のうえを、お昼下がりの風が、ひと筋、抜けていった。
「『因果』も、なんとなく『罰』に近い感じで、いままでは使ってきました」
「ええ」
「『悪いことをしたから、その結果がいつか、自分のところに戻ってくる』っていう意味で」
「ええ」
「だから先生に、最初のお手紙でも『罰』みたいな書き方をしてしまったのかもしれません」
——
私は、ほんのすこし、首をかしげた。
「桐原さん。ここから先は、私自身がふだん感じている話を、すこしだけお伝えしてもよろしいですか」
「もちろんです」
「私のなかでの『因果』というのは、もうすこし、静かな言葉なんです」
「ええ」
「『悪い結果が戻ってくる』という意味の言葉、というよりは」
「ええ」
「『起きていることを、ご自分で、起きていると認める』ということ。それを『因果』と、私は受け取っています」
「『起きていると、認める』」
「ええ」
——
桐原さんが、ふっと、私のほうへ顔を向けた。
並んで座ってきた長い時間のなかで、桐原さんがいちばんはっきりこちらを向かれたのは、その瞬間だった。右目はやはり、ほんの少し、左目とは違う角度で、私を見ていた。
「『罰だ』とご自分のなかで決めつけてしまうと、ご自分のいまの全部を『悪いものから始まった結果』として見ることになります」
「ええ」
「でも、桐原さんがいま座っていらっしゃるところは、もしかしたら、そうじゃないかもしれません」
「ええ」
「桐原さんがこの何年か、いくつものことをいちどに見ようとしてこられた。それを目のほうが、いまいったん、お知らせとして桐原さんに返している、という見方も、できます」
「お知らせ、ですか」
「ええ」
——
桐原さんは、その「お知らせ」という言葉を、ご自分の口でもう一度、ゆっくり置き直された。
「『お知らせ』」
「ええ。桐原さんのお身体のなかから、桐原さんに向けて出されている、お知らせです」
「ええ」
「そしてここからは、桐原さんへのおたずねなんですけれど」
「はい」
「いまのご関係について、桐原さんのなかで『よくない』というお気持ちは、ありますか」
——
桐原さんは、すぐには答えなかった。
しばらく、ご自分のひざのうえに置いた両手を、見ていらした。
「あります」
「ええ」
「ずっとあります」
「ええ」
「最初の半年、お食事だけだったころから、たぶんあります」
「ええ」
「『よくないな』って思いながら、続けてきました」
——
私は、頷いた。
「桐原さん」
「はい」
「『これはよくない』というお気持ちを、ご自分の中でちゃんと感じていらっしゃる。それが、まずひとつめのおたずねでした」
「ええ」
「ふたつめは、ここからです」
「はい」
「その『よくない』というお気持ちをご自分のなかに置いたまま、いまのことを続けていかれるのかどうか」
「ええ」
「それを、急がずに、ご自分でお考えになる時間が、いま、来ているのかもしれません」
——
桐原さんが、ゆっくり、視線をまた石庭のほうへ戻された。
縁側の板のうえに、桐原さんの肩のほうから、ふっと長い息が抜けていく音がした。
「先生」
「はい」
「答え、いただけないんですね」
「ええ」
「答えは、私のほうから差し上げられるものではないんですよ」
「ええ」
——
桐原さんは、そのまま、しばらく、石庭の白砂のいちばん遠いところを、見ていらした。
その横顔のなかに、何かが、ゆっくりと位置を変えていく気配があった。








