最終更新日:

右目が二重に見えるんです ③

本作のあらすじ

「右目が、二重に見えるんです」——

関西の街から京都まで、ひとりの四十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。

薬の効かない目の不調と、二年続いている誰にも言えない関係。「これは、罰ですよね」とつぶやいた数ヶ月前のメッセージから、季節は梅雨に入っていた。

龍安寺の石庭の縁側で、たま先生はその「罰」という言葉に、何を返すのだろうか——

→ 第1話から読む

「ばちが当たった」と口にされたあと、桐原さんはしばらく、何も言わなかった。

縁側の板のうえに、私の手のひらと桐原さんの手のひらが、すこし離れて並んで置かれていた。桐原さんの手の指先は、白くなるくらい、ご自分のひざの布のうえでぎゅっと閉じられていた。

石庭の白砂のうえに、雲が一枚、影を落とした。

そのいちまいの影が、縁側の手前まですっと伸びてきて、桐原さんの足元のところで止まった。止まったまま、しばらく動かなかった。

——

「先生」

「はい」

「あの、ちょっと、変なお話をしてもよろしいですか」

「ええ。どうぞ」

「お薬を変えていただいた次の日でした」

「ええ」

「お昼ごはんを社員食堂で食べていたら、急に、五年くらい前のことが、ふっと頭のなかに戻ってきたんです」

——

「五年くらい前」

「はい。その方とまだお会いする前のことです」

「ええ」

桐原さんは、そこでひとつ唾を飲み込んでから、続けた。

「その日、母から電話があって。父の検査結果が、よくなかったって連絡で」

「ええ」

「私は会社のお昼休みに、廊下の隅で電話を受けて、母の声を聞いて」

「ええ」

「電話を切って、自分の席に戻る途中で、廊下の窓から外を見たんです」

「ええ」

「そのときの空の色が、急に、社員食堂で見ていた窓のうえに、ぱあって重なって見えました」

——

桐原さんは、そこで、少し短く息を吐いた。

「ばあって、っていう言い方も変ですけど、本当にばあって。五年前の窓と、その日の食堂の窓が、いっしょに見えたんです」

「ええ」

「右目のほうから、五年前の景色が来て」

「ええ」

「左目のほうに、いまの景色があって」

「ええ」

「自分でも、なんで急にそんなことが起きたか、分かりませんでした」

——

私はゆっくり、頷いた。

縁側の板のうえに置いていた手のひらを、ほんの少しだけ、桐原さんのほうに寄せた。触れない位置で止めて、それから、また同じ場所に戻した。

桐原さんはそれに気づいていらしたかどうか分からないけれど、お顔は、まっすぐ石庭のほうを向いたままだった。

「先生」

「はい」

「父は、その電話の半年あと、亡くなりました」

「ええ」

「その方とお会いするようになったのは、父のお葬式のあとからでした」

——

そこを、桐原さんはひとつの段落として、置かれた。

「父のお葬式のあと」と「その方とお会いするように」のあいだには、ご自分のうちで何度も繰り返してきた、長い接ぎ目があるはずだった。けれど桐原さんは、その接ぎ目を私に開いて見せようとはなさらなかった。「あと」と「から」だけが、その接ぎ目をいま、つないでいた。

私はそこに、入っていかなかった。

——

「お薬を変えた次の日に、五年前のあの廊下の景色が、ふっと戻ってきて」

「ええ」

「それから、その方からのメッセージのお知らせが、スマホで光って」

「ええ」

「お知らせの音と、五年前の母の声が、一瞬、重なって聞こえました」

「ええ」

「右目の見え方がまた、同じようにぼんやり二重になって」

「ええ」

「そのときに、思ったんです」

——

桐原さんは、そこで自分のひざのうえの両手をほどいて、片方の手で、右目のすぐ下のあたりを、軽く触れた。

ご自分の右目に、いま見えているものを、ご自分の指で確かめるような触れ方だった。

「私、もしかしたら、ふたつのことを、いっぺんに見ようとしてきたのかもしれない」

「ええ」

「父のいなくなった世界と、その方がいる世界と」

「ええ」

「夫がいる毎日と、その方と過ごす時間と」

「ええ」

「ずっと、ふたつのものを、いっぺんに見ようとしてきて」

「ええ」

「目のほうが、それを、もう、許してくれなくなったんじゃないか、って」

——

縁側のうえを、また風が抜けた。

その風は、すこし強かった。石庭の白砂のうえに、薄い縞のような跡をいっとき残して、すうっと通っていった。

桐原さんはお顔を石庭のほうに戻されて、それからゆっくり、もう一度口を開かれた。

「これって、罰ですよね」

「先生、これって」

「私のうちがわが、私を罰しているっていうことですよね」

——

私は、すぐには返さなかった。

桐原さんは、ご自分のいちばん奥にあったものを、いま、ご自分の口で引き上げていらした。引き上げる途中で誰かに手を貸されると、その引き上げたものは、ご自分の手のなかにきちんと収まらない。私はそのことを、長い時間をかけて、身体で覚えてきていた。

縁側の板の冷たさが、私のお尻のあたりから、ゆっくりと立ちのぼってきた。

——

桐原さんは、しばらく、両手で、ご自分の右目のあたりを覆っていた。

その指のあいだから、息だけが、ゆっくりと、いくつか出ていた。

涙、ではなかった。

涙にすらなりきれない、もっと手前の、何か深いところから出てくる息だった。

私はそばに座って、その息の数を、いっときご一緒に数えていた。

——

石庭の白砂のうえに、午後のほうの光が、また少し位置を変えていた。十五個ある石のうちの、いちばん大きな塊のあたりに、いまは光が当たっていた。

風が、もう一度、苔のいちばん端のところまで通っていった。

桐原さんが、ようやく、両手をひざのほうに戻された。

その手のひらは、ご自分の右目を覆っていたあいだに、すこしだけ赤くなっていた。

「先生」

「はい」

「私、自分の口で『罰』って、言ってしまいましたね」

——

桐原さんはそう言って、ご自分の指でご自分の口元のあたりを、軽く撫でた。

何かを確かめるような撫で方だった。

私はその手の動きを、横顔の視界の端で、静かに見ていた。

本作「右目が二重に見えるんです」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

ほかのお悩み小説も読む


Back to top