本作のあらすじ
「右目が、二重に見えるんです」——
関西の街から京都まで、ひとりの四十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
薬の効かない目の不調と、二年続いている誰にも言えない関係。「これは、罰ですよね」とつぶやいた数ヶ月前のメッセージから、季節は梅雨に入っていた。
龍安寺の石庭の縁側で、たま先生はその「罰」という言葉に、何を返すのだろうか——
数ヶ月前のメッセージを、もう一度開いた。
朝のうちにいったん降った雨はやんで、いま窓の外には、梅雨の合間の薄い日が差している。机のうえのスマホに浮かんだ文面を、私はゆっくり目で追った。
「先生」
「右目が、二重に見えるんです」
「お薬を飲んでも、効きません」
差出人は、桐原さんという女性だった。これまでに何度か、画面越しにお話を聞いてきた方である。最初にお会いしたのは去年の秋ごろだったと思う。声の出し方の控えめな方で、Zoomの画面の下半分はいつも、ご自分のひざ掛けで隠れていた。
文面は続いていた。
「これは、罰なんでしょうか」
「私は二年、誰にも言えない人と会っています」
——
その一通を最初に読んだのは、桜の終わりかけの頃だった。
返信は、その日のうちには出さなかった。「お辛いですね」と打ちかけて、消した。「医療機関へは」と書きかけて、これは別便でいいと、また消した。
罰、という言葉が、画面の真ん中に置かれていた。その文字をいちど画面越しにではなく目の前で受けとめておきたいと、私は思った。
「お会いしましょう」
返したのは翌朝のことだった。
桐原さんからは、それから何日か、返事が来なかった。「梅雨に入ってからのほうが、目の不調が落ち着く日もあります」とご自分で書いていらして、その「落ち着く日」という選び方の慎重さに、私は画面のうえで少し止まった。
会う日は、そうして六月の半ばに決まった。
——
待ち合わせの場所は、龍安寺の石庭の縁側にした。
私のほうから提案した。喫茶店のテーブルでもないし、川辺のベンチでもない場所がいい気がした。お一人で抱えていらしたものを、ご自分で言葉にされていくとき、向かい合って座るかたちは、桐原さんにはたぶん少し近すぎる。
縁側に並んで、同じ方向を見ながら話す。
そういう形のほうがあの方には、ご自分の声を出していただきやすいのではないか——その勘のようなものを、私は信じてみることにした。
——
六月の半ばの、ある日の昼下がり。
JR円町から、市バスで龍安寺道まで上がった。
バスを降りると、雨上がりの石畳のうえにまだ薄く水が光っていた。京都市内のなかでは、このあたりは少し空気が違う。観光バスがざわめいていない時間帯を選んだので、参道は静かだった。両側の青もみじのいちばん下の葉が、ところどころ雫をまだ落としきれずにいる。
山門をくぐる前にいちど立ち止まって、私は、上着の襟元をすこし整えた。
桐原さんに会う前にこうして、自分の身じまいを一度確かめるということを、私はいつもやる。お一人をお待たせする側の人間が、自分の身体じゅうの空気をいっとき、整えておく。それは儀式というよりは、私自身の長い時間をかけて身についた、ささやかな習わしのようなものだった。
——
石庭の縁側に向かうあいだ、私は寺の境内を、ゆっくりと歩いた。
参道の砂利のうえを、雨上がりの土の匂いが、ふっと足元から立ちのぼってくる。観光客はそれなりにいたけれど、平日の午後の梅雨どきとあって、声を立てて笑う人は少なかった。皆、ご自分のペースで境内のあちこちを見て歩いている。その静けさのなかに、私のひとり分の足音をそっと加えて歩いた。
鏡容池の周りを、すこし遠回りした。
睡蓮の葉が、池の半ばまで広がっていた。蕾はまだ閉じていて、花のひらく時季は梅雨明けのもう少し先である。葉のうえに、雨上がりの雫が一粒、転がるでもなく止まるでもなく、長くそこに留まっていた。
その雫を見ながら、私は数ヶ月前のあの一行を、もう一度、自分の中でなぞった。
——「これは、罰なんでしょうか」
桐原さんが、その短い問いをご自分の指で打ちこんだ夜のことを、私は知らない。けれど打ちこむ前に、削除と入力を何度か往復された気配は、文面の隙間に残っていた。「罰」と書くか、「ばち」と書くか、それとも「天罰」と書くか——その揺らぎを通り抜けて、いちばん硬い「罰」というひと言が、最後にスマホの画面に残ったのだろう。
その言葉の重さを私はこれから、桐原さんと並んで縁側に座って、いっとき、二人で受けとめてみることになる。
——
石庭の前まで来た。
縁側のいちばん端に、桐原さんがすでに座っていらした。
紺のリネンのワンピースに、薄手のグレーのカーディガン。バッグは膝のうえに置かれていた。背筋はまっすぐで、視線は、十五個ある石のいちばん右の塊のあたりに置かれていた。横顔のほうに、私は気配だけで気づかれないように近づいた。
「桐原さん」
声をかけると、桐原さんはこちらを向いて、すこし驚いたように瞬きをひとつした。
それから、ゆっくり、頭を下げた。
「先生。お時間、ありがとうございます」
「いえ。よくおいでくださいました」
私は、桐原さんから少し間を置いて、縁側に腰を下ろした。
向かい合うのではなく、並んで座るかたちになった。
石庭のほうを向いた桐原さんの右目が、いっとき、何かを確かめるように、ふっと細められた。








