本作のあらすじ
「私が、彼を、見捨てたんです」——
関西のある街から京都へ、二十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
見栄っ張りな元ご主人の好みに合わせ、若くして自分名義で組んだ大きなローン。義母の言葉、子どものこと、そして自分から切り出した離婚。新しい彼や周りの支えがあってもなお、夜になるたびに「私が彼を見捨てた」という声が消えない。
梅雨入り前の北山の朝、たま先生はその罪悪感の渦のなかにいる人に、なにを差し出すのだろうか——
「先生」
しばらくの沈黙のあとで、西村さんが顔を上げられた。
声には、店に入って来られたときよりも、ほんの少しだけ高さが戻っていた。胸のなかにあるものをあらかた外に置けた人が、ようやく息のうえにふつうの強さを乗せられるようになったときの、そういう声だった。
「私、ここに来るまでずっと、ひとつのことしか考えていなかったんです」
「ええ」
「『彼の人生を、私が壊した』って」
「ええ」
「でもいま、すこしだけ、別のかたちが見えてきました」
——
私はうなずきながら、カップのほうへ視線を落とした。
カウンターの奥で、もうひと組のお客さんが入ってこられたらしい気配があった。けれど店主はその方たちを店の入口で短く案内されて、私たちの席のほうにはわざと足を運ばれなかった。「奥のお席は、いまお話のお時間ですから」というしんがりを、店主はとても自然に立ててくださっていた。
——
「あの大きな家を建てたのは、若かった私です」
「ええ」
「彼のローンが通らなかったときに、自分の名前を貸そうって決めたのも、私でした」
「ええ」
「家を出ますって、はじめに言葉にしたのも、私です」
「ええ」
「ぜんぶ、ずっと私が決めてきたんです」
——
西村さんはそこで、いったん言葉を止められた。
「決めてきた」と、いまご自分の口で何度も繰り返されている。それが、罪悪感のかたちをしているうちは「私が悪い」という方向にしか転がらなかった。けれど「決めてきた」のひと言は、転がし方を変えると、まったく別のかたちで立ちあがる。それを西村さんはご自分の中で、いま少しずつ確かめていらっしゃる。
「先生」
「はい」
「私、もしかして、すごかったんでしょうか」
——
その一文は、半分が問いで、もう半分は答えに近い場所にあった。
私はそれを、すぐに「すごいですよ」とかたちにすることは、しなかった。私の側からの言葉で、その芽を上から押さえこんでしまわないように。
代わりに、ゆっくりとうなずいた。
「西村さんが、いまご自分でその一文を口になさいましたね」
「はい」
「それを、どうぞ、もうしばらくご自分の手のなかに置いておかれてください」
「ええ」
「夜にあの声が立ちのぼってきたら、そのとなりにいまご自分でかたちにされたこの一文を、そっと置いてみていただいて」
「はい」
——
西村さんの瞼の縁で、もう一度、薄い水が満ちかけた。
けれど今度はそれが頬まで降りてはこなかった。代わりに、目の奥のほうで、ふっと小さな灯りがついたような気配があった。なにかをご自分で誇ってもいい瞬間に、はじめて立ち会われた人の、そういう静けさだった。
——
「先生、ありがとうございます」
「いえ」
「ここに来てよかったです」
「私も、西村さんとこうしてお話できて、よかったです」
「お薬とお医者さまのことも、続けます」
「お願いしますね」
「責めるのもたぶん、しばらくは、続きます」
「ええ」
「でも、そのとなりに『今日もよう生きてはるね』を、ひとつ置いてみます」
——
私はゆっくりと、ほほえんだ。
「西村さんはご自分のなかにすでに、いくつもの道具をちゃんとお持ちなんですよ」
「ええ」
「責めるのも道具のひとつ。誇るのも道具のひとつ。両方とも、西村さんのなかから出てきたものです」
——
私たちは、店の前で短く別れた。
西村さんは、北山通りの東のほう、地下鉄の駅の方角へ歩いていかれた。リネンのワイドパンツの裾が、朝の光のなかで、ふわっとひと揺れした。背中はまっすぐで、けれどそのまっすぐさのなかに、来たときよりほんの少しだけ柔らかい線があった。
——
私はしばらく、店の入口の白い陶器のカップのまえに立っていた。
通りの欅の若葉が、ふっと風で揺れた。葉と葉のあいだの光が、いったん地面にこぼれて、すぐにまた葉のうらへ戻っていく。京都の六月のはじめの朝の光は、いつもこういう行き来のかたちをしている。
——
二十代のおわりに、東京から京都に戻ってきた朝のことを、私はふっと思い出していた。
新幹線を降りて、京都駅の北口の階段を上がりきった瞬間に、北山のほうの空がまっすぐに見えた。あのとき私は、ホームの隅にしゃがみこんで、しばらく動けなかった。動けないままに、自分のなかでひとつだけ、こう呟いていた。「私、ここまで、よう来たな」。それは祈りでも誓いでもなかった。ただ、自分のかたちをはじめて自分でゆるしたときの、ぽつんとした独り言だった。
——
あれから、長い時間が経った。
私はいま、北山の朝の店のまえに立って、あのときの私が見ていた空とおなじ空を見ている。
西村さんはまだ、夜になればご自分を責めるだろう。けれどその夜のとなりに、今日西村さんはご自分で「すごかったかもしれない」というかたちをひとつ置いて行かれた。私が二十代のおわりにホームのうえで置いた、あのぽつんとした独り言。それは、ずいぶん近い場所にあるもののように思えた。
——
風が、もう一度欅のうえを抜けていった。
私は店の入口で、ゆっくりと深呼吸をひとつした。
朝の光は、もう細かい粒のかたちではなくなっていた。面のひろい、お昼に近い光に変わり始めていた。
その変わり目のうえで、私はしばらく、自分自身の足元のほうを見ていた。








