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五千万のローンと離婚しました ④

本作のあらすじ

「私が、彼を、見捨てたんです」——

関西のある街から京都へ、二十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。

見栄っ張りな元ご主人の好みに合わせ、若くして自分名義で組んだ大きなローン。義母の言葉、子どものこと、そして自分から切り出した離婚。新しい彼や周りの支えがあってもなお、夜になるたびに「私が彼を見捨てた」という声が消えない。

梅雨入り前の北山の朝、たま先生はその罪悪感の渦のなかにいる人に、なにを差し出すのだろうか——

→ 第1話から読む

頬のなかばで止まっていたしずくが、ようやく、ふっと動いた。

下のほうへすこし降りて、また止まった。西村さんは口元を覆っていた手をゆっくり下ろすと、そのしずくのあったあたりを、指の腹で軽くだけ拭われた。乱暴に拭ってしまうのを、ご自分にあえて許されない人の、慎重な動作だった。

「先生、すみません」

「いいえ。謝らなくて、いいんですよ」

——

私は自分のカップから手を離して、すこしだけ姿勢を整えた。

窓の外の坪庭のうえを、もう一段つよくなった朝の光が、面のひろさで降りてきていた。苔のあいだに、雨を待つ小さな水滴が、ところどころに残っている。それらが光に当たるたびに、ひとつずつ、白い粒になって消えていった。

「西村さん」

「はい」

「すこしだけ、私の昔の話を、お話してもいいでしょうか」

——

西村さんが、伏せていた目を、こちらに上げられた。

ふだん私は、ご相談のなかで自分のことをほとんど話さない。私が私のことをお話しすることが、ご相談の方の言葉を奥に押しもどしてしまうことを、長く知っているからだった。

今日、その線をふっとずらしてもいいと、私は思った。「ぜんぶ、お話してもいいですか」と店に入ってこられたあの一文に、私の側からいったん何かをお返ししたほうがいい気がしていた。

「ええ。ぜひ」

——

私はカップのほうへいったん視線を落とした。

カウンターの奥のラジオが、ボリュームをずいぶん絞った音で、低く鳴っていた。曲のあいだに、店主の女性が豆袋の口を留める音が、しゃりっと小さくこちらまで届いた。

「私は、二十代のはじめのころ」

「ええ」

「東京の、大きな会社で働いていたんです」

「そうなんですね」

「飛行機にいちばん乗っていた時期で、京都には、ほとんど帰れませんでした」

「ええ」

「自分の身体のことなんて、考えたこともなかったです」

——

西村さんが、すこしだけ前のめりになって、私のほうを見ていらした。

私はそのまなざしを受けながら、頭のなかにふっと立ちのぼってきた二十代の自分のかたちを、しばらく見ていた。空港のロビーの白い椅子。深夜のオフィスの蛍光灯の光。出張先のホテルで、シャワーも浴びずに眠ってしまった一晩。それらは、いまここに座っている自分とは、ずいぶん遠い場所にいる人のかたちをしていた。けれどたしかに、ぜんぶ私だった。

——

「ある朝、立てなくなりました」

「立てなく」

「ええ。出張先のホテルのベッドの脇で、足が床から離れなくなって」

「ええ」

「そこからはじまって、しばらくいろんなところを壊してから、京都に戻ってきました」

「ええ」

「戻ってきてからしばらくのあいだ、私は自分を責めるしか自分との関わり方を知らなかったんです」

——

「責めるしか」

西村さんが、その三文字を、ご自分の口でゆっくり繰り返された。

「はい」

私はうなずいた。

「『なんでこんなになるまで気づかなかったんだ』って」

「ええ」

「『私のせいで、まわりにも迷惑をかけた』って」

「ええ」

「責めるのが自分のいちばん身近な道具で、それ以外の道具をまだ持っていなかったんです」

——

西村さんは、湯気の立たなくなったご自分のカップに、もういちど両手を添えられた。

私のお話をしばらく、ご自分の体のなかにいったん降ろしておいてから、それから言葉を返したい——その息のかたちだった。

——

「責めることが、まだ、自分への優しさのいちばん近いかたちだったんですね」

私は、ゆっくりとつづけた。

「責めれば、すくなくとも自分は『悪くない』とは思っていない、ということになりますから」

「ええ」

「自分を悪くないことにしてしまうのが、なにより怖かったんですよ、あのころの私は」

「ええ」

「西村さんが今おっしゃった『責めないと私が私を許してしまう気がする』というあの言葉も、たぶんそういう種類のおはなしなんです」

——

西村さんの目に、ふっと、ひかりが宿った。

涙ではなかった。なにかを、はじめて自分の手のひらの上に置いてもらった人の、そういう光だった。

「先生」

「はい」

「責めることを、やめなくても、いいんですか」

「やめなくて、いいんですよ」

「責めながらでも、いいんですか」

「責めながらで、大丈夫です」

——

私はそこで、いっとき言葉を切った。

カップのなかで、わずかに残っていた湯気が、ゆっくりと立ちのぼっていった。

「ただ、ひとつだけ、お話してもいいでしょうか」

「はい」

「責めることのとなりに、ほんの小さなものでいいので、もうひとつだけ別の道具を置いてみていただきたいんです」

——

西村さんは、ゆっくりとうなずかれた。

「別の、道具」

「ええ」

「責めるご自分のとなりに、『今日もよう生きてはるね』っていうご自分の声を、ひとつだけ置いてみるんです」

「ええ」

「今日もよく生きてる、って」

「はい。それだけで、いいんですよ」

——

西村さんはその一文を、ご自分の口の中で、もう一度ふっと噛まれた。

奥の坪庭のうえに、青もみじのいちまいが、風で軽くおじぎをした。

本作「五千万のローンと離婚しました」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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