本作のあらすじ
「私が、彼を、見捨てたんです」——
関西のある街から京都へ、二十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
見栄っ張りな元ご主人の好みに合わせ、若くして自分名義で組んだ大きなローン。義母の言葉、子どものこと、そして自分から切り出した離婚。新しい彼や周りの支えがあってもなお、夜になるたびに「私が彼を見捨てた」という声が消えない。
梅雨入り前の北山の朝、たま先生はその罪悪感の渦のなかにいる人に、なにを差し出すのだろうか——
頬のなかばで止まっていたしずくが、ようやく、ふっと動いた。
下のほうへすこし降りて、また止まった。西村さんは口元を覆っていた手をゆっくり下ろすと、そのしずくのあったあたりを、指の腹で軽くだけ拭われた。乱暴に拭ってしまうのを、ご自分にあえて許されない人の、慎重な動作だった。
「先生、すみません」
「いいえ。謝らなくて、いいんですよ」
——
私は自分のカップから手を離して、すこしだけ姿勢を整えた。
窓の外の坪庭のうえを、もう一段つよくなった朝の光が、面のひろさで降りてきていた。苔のあいだに、雨を待つ小さな水滴が、ところどころに残っている。それらが光に当たるたびに、ひとつずつ、白い粒になって消えていった。
「西村さん」
「はい」
「すこしだけ、私の昔の話を、お話してもいいでしょうか」
——
西村さんが、伏せていた目を、こちらに上げられた。
ふだん私は、ご相談のなかで自分のことをほとんど話さない。私が私のことをお話しすることが、ご相談の方の言葉を奥に押しもどしてしまうことを、長く知っているからだった。
今日、その線をふっとずらしてもいいと、私は思った。「ぜんぶ、お話してもいいですか」と店に入ってこられたあの一文に、私の側からいったん何かをお返ししたほうがいい気がしていた。
「ええ。ぜひ」
——
私はカップのほうへいったん視線を落とした。
カウンターの奥のラジオが、ボリュームをずいぶん絞った音で、低く鳴っていた。曲のあいだに、店主の女性が豆袋の口を留める音が、しゃりっと小さくこちらまで届いた。
「私は、二十代のはじめのころ」
「ええ」
「東京の、大きな会社で働いていたんです」
「そうなんですね」
「飛行機にいちばん乗っていた時期で、京都には、ほとんど帰れませんでした」
「ええ」
「自分の身体のことなんて、考えたこともなかったです」
——
西村さんが、すこしだけ前のめりになって、私のほうを見ていらした。
私はそのまなざしを受けながら、頭のなかにふっと立ちのぼってきた二十代の自分のかたちを、しばらく見ていた。空港のロビーの白い椅子。深夜のオフィスの蛍光灯の光。出張先のホテルで、シャワーも浴びずに眠ってしまった一晩。それらは、いまここに座っている自分とは、ずいぶん遠い場所にいる人のかたちをしていた。けれどたしかに、ぜんぶ私だった。
——
「ある朝、立てなくなりました」
「立てなく」
「ええ。出張先のホテルのベッドの脇で、足が床から離れなくなって」
「ええ」
「そこからはじまって、しばらくいろんなところを壊してから、京都に戻ってきました」
「ええ」
「戻ってきてからしばらくのあいだ、私は自分を責めるしか自分との関わり方を知らなかったんです」
——
「責めるしか」
西村さんが、その三文字を、ご自分の口でゆっくり繰り返された。
「はい」
私はうなずいた。
「『なんでこんなになるまで気づかなかったんだ』って」
「ええ」
「『私のせいで、まわりにも迷惑をかけた』って」
「ええ」
「責めるのが自分のいちばん身近な道具で、それ以外の道具をまだ持っていなかったんです」
——
西村さんは、湯気の立たなくなったご自分のカップに、もういちど両手を添えられた。
私のお話をしばらく、ご自分の体のなかにいったん降ろしておいてから、それから言葉を返したい——その息のかたちだった。
——
「責めることが、まだ、自分への優しさのいちばん近いかたちだったんですね」
私は、ゆっくりとつづけた。
「責めれば、すくなくとも自分は『悪くない』とは思っていない、ということになりますから」
「ええ」
「自分を悪くないことにしてしまうのが、なにより怖かったんですよ、あのころの私は」
「ええ」
「西村さんが今おっしゃった『責めないと私が私を許してしまう気がする』というあの言葉も、たぶんそういう種類のおはなしなんです」
——
西村さんの目に、ふっと、ひかりが宿った。
涙ではなかった。なにかを、はじめて自分の手のひらの上に置いてもらった人の、そういう光だった。
「先生」
「はい」
「責めることを、やめなくても、いいんですか」
「やめなくて、いいんですよ」
「責めながらでも、いいんですか」
「責めながらで、大丈夫です」
——
私はそこで、いっとき言葉を切った。
カップのなかで、わずかに残っていた湯気が、ゆっくりと立ちのぼっていった。
「ただ、ひとつだけ、お話してもいいでしょうか」
「はい」
「責めることのとなりに、ほんの小さなものでいいので、もうひとつだけ別の道具を置いてみていただきたいんです」
——
西村さんは、ゆっくりとうなずかれた。
「別の、道具」
「ええ」
「責めるご自分のとなりに、『今日もよう生きてはるね』っていうご自分の声を、ひとつだけ置いてみるんです」
「ええ」
「今日もよく生きてる、って」
「はい。それだけで、いいんですよ」
——
西村さんはその一文を、ご自分の口の中で、もう一度ふっと噛まれた。
奥の坪庭のうえに、青もみじのいちまいが、風で軽くおじぎをした。








