本作のあらすじ
「私が、彼を、見捨てたんです」——
関西のある街から京都へ、二十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
見栄っ張りな元ご主人の好みに合わせ、若くして自分名義で組んだ大きなローン。義母の言葉、子どものこと、そして自分から切り出した離婚。新しい彼や周りの支えがあってもなお、夜になるたびに「私が彼を見捨てた」という声が消えない。
梅雨入り前の北山の朝、たま先生はその罪悪感の渦のなかにいる人に、なにを差し出すのだろうか——
向かいの席に、西村さんはゆっくりと腰を下ろされた。
椅子は古い木の丸椅子で、ひと脚ずつ背の高さがすこしずつ違っている。西村さんは座面の縁に手をつきながら、慎重に腰の位置を決められた。長く椅子のうえで自分の重さを測るくせのついた人の、その所作だった。
店主の女性が、メニューをそっと差し出した。
「西村さんは、何になさいます?」
「先生がいつも頼まれるものを、私もお願いしてみたいです」
私は微笑んで、店主に向かって言った。
「ふたつ、浅煎りのほうのモカで」
「かしこまりました」
——
豆を挽くハンドルの音が、店の奥から軽くこちらまで届いてきた。粒のひとつぶずつが、ゆっくり砕けていく音である。その音のあいだ、西村さんは膝のうえで両手をそっとそろえていらした。
「先生」
挽き終わったハンドルの音がふっと止まったあと、西村さんが顔を上げて言った。
「Zoomでは、お話しきれないことがあって」
「ええ」
「ぜんぶ、聞いていただいてもいいですか」
「もちろんですよ。今日は、そのために来てくださったんですから」
——
西村さんは、ほうっと息を吐かれた。
「家を、建てたんです」
「ええ」
「結婚して、半年も経たないころに」
「ええ」
「彼が、どうしても建てたいって言って」
カップのほうへ目を落としたまま、西村さんはひと言ずつ、ゆっくりと並べていかれた。声は静かだったけれど、その並べ方には独特の手順があった。長く家のなかで自分にだけ言い聞かせてきた人の手順だった。
「彼のローンが、通らなくて」
「ええ」
「私の名義で、組みました」
「ええ」
「とても大きな、額でした」
——
西村さんは、その「とても大きな」のあとで、いったん言葉を切られた。具体の数字を口にするのを、ご自分のなかで避けていらっしゃる気配だった。代わりにそっと、両手の指を膝のうえで深く組み合わせられた。指先の白さが、店のなかの朝の光のなかに、ふっと浮かびあがった。
「彼の好みの、家でした。豪華なオプションを、たくさんつけて」
「ええ」
「私はそのころ、家のことをよくわかっていなかったんです」
「ええ」
「ただ、彼が嬉しそうにしているのを見て、それでいいと思っていました」
——
私はうなずきながら、自分のカップに目を落とした。
カップのなかの黒い液面に、窓辺の光がいち枚、薄く反射していた。「自分のことをよくわかっていなかった」のではなくて「家のことをよくわかっていなかった」。その語順を、西村さんはおそらくご自分でも意識せずに選ばれた。
——
「家ができて、すぐでした」
「ええ」
「『次は、子どもだね』って、彼が言いました」
西村さんの肩のあたりが、ほんのすこしだけ、内側に寄った。
「私もそのときは、そうかなって思っていたんです」
「ええ」
「ただ、彼のお母さまから、そのあとに」
少し言いよどまれて、それから言葉を継がれた。
「『家のことは、女がするものですよ』って」
——
豆を挽き終えた店主が、二つのカップにお湯を細く注ぎはじめた。
カウンターのほうから、もう一段濃くなった香りが、こちらまで流れてきた。湯の落ちる音と豆のふくらむ気配と、ふたつが重なる、ほんの短いひとときである。
「その言葉が、抜けなくなりました」
西村さんが、うつむいたまま続けられた。
「彼のお母さまの言葉は、彼の言葉とおなじ重さで、私のなかに残るんです」
「ええ」
「それからしばらく、夜中に何度も、目が覚めるようになりました」
「ええ」
「天井を見ているうちに、自分がこの家に何のためにいるのか、わからなくなって」
——
私は何も言わずに、そのまま聴いていた。
西村さんは、ご自分のなかで言葉のかたちを確かめながら、ひとつずつ並べていかれた。「眠れない」ではなく「夜中に何度も目が覚める」。「不安だった」ではなく「自分がこの家に何のためにいるのか、わからなくなる」。それは、ご自分でも気づかないままに、ご自分の感情に正確な名前を選びとってこられた人の言い方だった。
——
「ある朝に、決めたんです」
そこで西村さんは、はじめてカップのほうに手をのばされた。指先がカップの取っ手を取って、けれど持ち上げるまでには至らずに、しばらくそのままで止まった。
「私からは、出ますって、彼に言いました」
「ええ」
「家のローンは、ぜんぶ、私のほうで引き受けますって」
「ええ」
「そうしないと私、彼にもお母さまにも、対等に話ができなかったんです」
——
カップの取っ手を握ったまま、西村さんはもう一度、ふうっと息を吐かれた。
「そう決めて、ようやく、彼の家を出られました」
そのあとに、西村さんは小さな声で、こう続けられた。
「でもそれからずっと——」
——
声が、いったん引き上げられた。Zoomの画面のなかで、これまで何度も、私が見てきたあの引き上げ方だった。
カップの黒い液面に、朝の光がもう一度、薄く反射した。








