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五千万のローンと離婚しました ①

本作のあらすじ

「私が、彼を、見捨てたんです」——

関西のある街から京都へ、二十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。

見栄っ張りな元ご主人の好みに合わせ、若くして自分名義で組んだ大きなローン。義母の言葉、子どものこと、そして自分から切り出した離婚。新しい彼や周りの支えがあってもなお、夜になるたびに「私が彼を見捨てた」という声が消えない。

梅雨入り前の北山の朝、たま先生はその罪悪感の渦のなかにいる人に、なにを差し出すのだろうか——

初めて画面の向こうで西村にしむらさんに会ったとき、その方は、まだほとんど何も話せていなかった。

Zoomの待機画面の青が、ふっと切り替わる。映ったのは、白いリビングのいちばん端だった。背景にはなにも置かれていない。家具のかどが見えるわけでもなく、ただ白い壁だけがあった。画面の中央に、若い女性がひとり座っていた。

「西村と申します」

声は細かった。けれどはっきり言いきった。長く独りで自分を律してこられた人の、押し出すような細さだった。

それから西村さんは、しばらくのあいだ、ご自分のひざのほうへ視線を落とされていた。眉のあたりが何度かかすかに動いて、唇が二度ほどひらいて、また閉じた。Zoomの小さな枠のなかでも、私には見えていた。胸のなかにある言葉を、口のかたちまで運ぶのに、その方が大きな力を要しているということが。

「ゆっくりで、大丈夫ですよ」

そう私が伝えると、西村さんはほうっと小さく息を吐いて、ようやく顔を上げてくださった。

——

そのオンラインのお話を、私は何度かお聞きした。

二度目、三度目と回を重ねるあいだに、西村さんの声には肩のちからが抜けたような場所ができていった。それでも肝心の話の核のところに来ると、決まって声がふっと途切れた。途切れるのではなく、ご本人がすっと声を引き上げて、奥に戻されているのだ。私はそれをむりに引き出そうとはしなかった。

四度目のお話のあと、西村さんはこちらに短いメッセージをくださった。

「先生。一度だけ、京都までうかがって、お会いしてもよろしいでしょうか」

「ぜんぶ、お話できる気がして」

その短い数行を、私はしばらくのあいだ画面のうえに置いて見ていた。Zoomの枠のなかで何度もいったん引き上げられてきた声が、京都までの距離を経ることで、ようやく外へ出られるかもしれない。そういう気配を、文面のうえからもらった気がした。

「ようこそ、京都へ」

そう、ひと言、お返しした。

——

六月の初めの、ある日の朝。

待ち合わせの場所として私が選んだのは、北山の通りからすこし外れたところにある、自家焙煎の小さな店だった。

朝の九時すぎだった。梅雨の入りが、京都ではまだ告げられていない。空は薄い青で、けれどそのなかに湿った気配がいち枚、まじりはじめている。「もう数日のうちに雨の季節がくる」ということを、京都に長く暮らしている者の体は、空を見るより先に肺のあたりで知る。

通り沿いの欅の若葉は、もう五月のあの透けるような薄さを残していなかった。葉のいちまいいちまいに、夏の重さの予感がほんのりと宿っている。けれど枝の先のほうだけは、まだ淡い緑をかすかに揺らしていた。

店は、通りから一本だけ奥に入った路地の角にあった。

外壁は焼き杉で、看板は出ていない。営業している日はドアの脇に、白い陶器のカップがひとつだけ置かれる。それが、店主のひそかな合図だった。

店内は、五席ほどのカウンターと、奥に小さなテーブル席が二つ。窓は東向きで、朝の光がカウンターの木目のうえに、長く伸びていた。豆を煎るときの、あの少し焦げた甘い香りが、店じゅうの空気にやわらかく混ざっていた。

「お久しぶりです」

カウンターの内側で、店主の若い女性が小さく頭を下げた。三十代のはじめくらいの方で、東京の焙煎所で修業ののち、二年前にこの店を開かれた。私はラジオのリスナーの方に教えていただいて、ときどき寄らせていただくようになった。

「奥のテーブル、お使いいただけますか」

「ええ、お願いします」

——

奥の窓辺の席に、先に座らせていただいた。

窓の外は抜けたところに小さな苔の坪庭があって、その向こうに、隣の家の白い土塀が見えている。土塀のあたまには、季節を少しだけ過ぎた額紫陽花がいち株、もう薄く色を変えはじめていた。

カップを膝のうえに伏せたまま、私はしばらく窓の外を見ていた。

朝の光のひんやりした白が、坪庭の苔のうえで、ひとつぶずつ粒を立てている。京都の六月の朝のいちばん最初の光は、いつも、こういう細かい粒のかたちをしている。それが昼に近づくにつれ、面のひろい光に変わっていく。今日もそういう変わり目の朝だった。

——

カウンターのほうから、ドアのベルが小さく鳴った。

「いらっしゃいませ」

店主の声がして、すこし間があった。店の入口で、ひとりの若い女性が店内の様子をゆっくり見渡していた。Zoomの画面の枠のなかで何度かお会いした方が、いまその枠の外にちゃんと立っていらした。

ベージュのリネンのワイドパンツ、白い半袖のブラウス、肩には小さな布のバッグ。髪は耳のうしろでひとつにまとめておられて、首筋のあたりが、朝の光のなかでとても若く見えた。

私と目が合うと、西村さんはふっと、息を吸い込むのを止めた。

それから一歩、ふみ出された。

「先生、おはようございます」

声は、Zoomで聞いてきたときよりも、ほんの少しだけ低かった。

本作「五千万のローンと離婚しました」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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