本作のあらすじ
「私、娘の友達付き合いで、自分が傷ついてしまうんです」——
関東の街から京都までやってきた、四十代の母親。三年生にあがる娘の交友関係を見守るうちに、いつのまにか自分のほうが深く傷つき、夜ごとに眠れない日が増えていた。
新緑がいちばん濃くなる五月下旬の御苑のベンチで、彼女はその「自分の傷」を、はじめて誰かの前に置こうとしている。
娘の隣で、傷ついているのは誰なのか——その問いの先で、たま先生は、何を返すのだろうか。
御苑のベンチのうえで、私たちはもうしばらく何も言わずに座っていた。
風のかたちが、すこし変わった気がした。午前のはじめにあった肌に触れるか触れないかの繊細な空気は、楠のいちばん高い葉のところまで上がりきって、そこから戻ってこなくなっていた。代わりに、御苑の砂利の地面のほうから、すこしだけ重たい空気が立ちのぼり始めていた。
午前の光が、もう少しすると、お昼の光に切り替わる。
時計を見なくても、御苑のなかにいると、それは光のうえで分かる。
——
「川原さん」
私はポットの蓋を、ゆっくり閉めた。
「そろそろ、お時間ですね」
「はい」
川原さんが姿勢を正して、湯呑みを膝のうえに置いた。それから、湯呑みのなかの最後のひとくちを、ゆっくりと飲んだ。湯呑みを置く動作のあいだに、肩のあたりが、もう一度すこしだけ落ちた。
「先生」
「はい」
「今日ここに来るまでは、私は自分のほうが傷ついているっていうことを、誰かに『おかしい』って言われるんじゃないかと思っていました」
「ええ」
「『お子さんのことを心配する母親はみんなそうだから、考えすぎないで』とか『娘さんの問題なんだから、お母さまが代わりに傷つかないでください』とか」
「ええ」
「先生は、そういうふうには、おっしゃいませんでした」
——
私は、ゆっくり頷いた。
「川原さんは、心配しすぎている方ではないんですよ」
「と、いうのは」
「『見すぎている』方なんです、たぶん」
「『見すぎている』」
川原さんがその言葉のうえでゆっくり、自分の口元に手を当てた。
——
「お子さんのことを、毎日いちばん近くで見ていらっしゃるのは、お母さまです。お子さまの口数とか、ご飯の食べ方とか、夜の寝つきとか。そういうものをお母さまは、ご自分でも気づかないくらい細かく毎日、目に入れていらっしゃいます」
「ええ」
「それは、母親というご職業の、ある意味では呪いのようなものでもあるんです」
「呪い」
「はい。見えてしまうということは、見えるたびにそのぶん、ご自分の心がそこに動くということでもありますから」
——
川原さんが、ふっと、自分の膝のうえで両手を組み直した。
御苑の砂利のうえに、お昼に近づいた光がひとひら、平たく落ちていた。さっきまで丸かった光の輪郭がいま、すこしずつ縦長にのびはじめていた。
「先生」
「はい」
「私、家に帰ってからもたぶん、また夜中に目が覚めると思います」
「ええ」
「あの子の四月の教室の景色も、また勝手に思い描いてしまうと思います」
「ええ」
「それはたぶん、すぐには止まりません」
私は、ゆっくり頷いた。
「止めようとしなくて、大丈夫ですよ」
——
川原さんが、こちらを見た。
「止めようとされると、止まらないこと自体に、また川原さんが傷つかれてしまいます」
「ええ」
「ご自分のなかでその景色がふっと立ちのぼってきたら、『ああ、いままた私の心配が顔を出したな』ってそれをご自分の手のひらでいったん受けてさしあげてくださいね」
「ええ」
「そのうえでそっと、それを横に置く時間を自分のために少しだけつくってあげてくださいね」
——
川原さんは何も言わずに、しばらく、自分の膝のうえの両手を見ていた。
——
「先生」
「はい」
「ひとつだけ、最後に、聞いてもいいですか」
「もちろんです」
「先生がもし私の立場だったら、四月のクラス替えの日の朝、娘さんになんて声をかけられますか」
——
その問いを私は御苑のベンチのうえで、ゆっくり自分のなかで噛んだ。
——「私だったら」と答えてはいけない問いだった。
声のかけ方は、ご家庭ごとにお子さんごとに違う。私が川原さんになることはできないし、川原さんのお嬢さんを私が知っているわけでもない。けれど川原さんは、その代わりに私が「答え」を出してくれることを期待していらっしゃるのではないということも、もう私には分かっていた。
私は、湯呑みをそっと、ベンチのうえに置いた。
ポットの脇に、二つの湯呑みが、並んだ。
——
「川原さん」
「はい」
「お声がけのまえに、お母さまの中でひとつだけ確かめておいていただきたいことがあるんです」
「はい」
「四月のクラス替えの日の朝、お母さまが、お娘さまの隣に立たれますね」
「はい」
「そのときお母さまは——」
私は、ベンチのうえで、ゆっくりと座り直した。
「あなたは、あなたの娘さんの何を、信じていらっしゃいますか」
——
その問いを口にした瞬間、川原さんはふっと息を吸い込むのを止めた。
楠のいちばん高い葉のあたりを、また風が抜けていった。そのほんのいっとき、御苑のなかが、ぴたりと静かになった。
「私が、娘の何を、信じているか」
川原さんが自分の口でその問いを、もう一度置き直した。
「ええ」
「お声がけの言葉は、その『信じていらっしゃるもの』の上にしか、本当の意味では乗らないんですよ」
「ええ」
「『大丈夫だよ』も『いってらっしゃい』も『今日はゆっくりでいいよ』も、お母さまがそのときお子さまのなかの何を信じていらっしゃるかによって、声の届き方がまるで変わります」
——
川原さんは、長いあいだ、答えなかった。
御苑のお昼の光のなかで、楠の影が一枚、川原さんのスニーカーの先のほうに落ちていた。それからゆっくり、彼女のジャケットの裾のあたりまで上がってきた。光と影のあいだを、葉のうえの風が、また通っていった。
「先生」
「はい」
「いま、すぐには、答えられません」
「ええ」
「家に帰る新幹線のなかで、それから家のなかでしばらく、考えてみます」
「ええ」
「考えながら、四月までを、過ごしてみます」
「ええ」
「『考えること』そのものがたぶん、私のいまの宿題ですね」
——
私は、ゆっくり頷いた。
「川原さん。その問いに、急いで答えを出されなくて、いいんです」
「はい」
「その問いを、ご自分のなかにしばらく置いておかれてくださいね」
「はい」
「そして四月の朝にお娘さまの隣に立たれたときに、ご自分のなかからすうっとひとつ答えが立ちのぼってくるかもしれません」
「ええ」
「立ちのぼってこなければ、それでも、いいんですよ。お母さまがその問いをずっと胸に持ってお声をかけられるだけで、お娘さまにはちゃんとその温度が届きますから」
——
私たちはベンチから立ち上がって、御苑の砂利道をゆっくりと歩いた。
中立売御門のほうへ向かうあいだ、二人とも多くは話さなかった。砂利のうえで、二人ぶんの靴音が、ゆっくりと並んで歩いていた。御苑の樹々のあいだから、お昼の光がいくつもの斑になって、私たちの肩のうえに落ちては流れていった。
御門のところで、川原さんは深く頭を下げた。
「先生。今日は、本当にありがとうございました」
「いえ。よくおいでくださいました」
「お娘さまにも、よろしくお伝えくださいね」
「ええ」
「川原さんも、ご自分のことをいちばん大事に、なさってくださいね」
「はい」
——
川原さんは、御門の外で、もう一度こちらを振り返った。
それから、すこしだけ、笑った。
その笑い方は、御苑のベンチに座られた最初の頃よりも、すこし呼吸が深くなった人の笑い方だった。
御門の白い壁の向こう側に、川原さんの背中がゆっくりと消えていった。
——
御苑のなかに戻る道で、私はもう一度、楠のベンチのところまで歩いた。
ベンチのうえには、川原さんの拾った楠の若葉が、まだ平たく置かれていた。
——
ひとり腰を下ろして、ポットの最後のほうじ茶を湯呑みに注いだ。湯気はもう、ほとんど立たなかった。それでもひとくち含むと、底にほんの少しの温かさが残っていた。
四月の朝までは、まだふた月近くある。
そのあいだに川原さんは、ご自分の中であの問いをすこしずつ転がしていかれる。転がすうちに、その問いはだんだん、川原さんご自身のかたちに馴染んでいくのだろう。
——その朝のことは、もう私の知ることではない。
御苑の楠のいちばん高い枝のあたりを、メジロが一羽、影だけで横切った。
その影が、足元の砂利のうえに、ほんの一瞬だけ落ちて消えた。








