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夫に期待するのをやめます ③

本作のあらすじ

「夫婦なのに、私はずっと、孤独でした」——

東京の郊外から京都まで、ひとりの女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。

母の介護、フルタイムの仕事、そして夫の無関心。「介護はお前の家族の問題だろ」と言い放った夫の言葉が、二十年近い結婚生活のなかに張りつめてきた孤独を、ついに表に引きずり出した。

夫婦という形のなかで、ひとり立ち尽くしてきた女性に、たま先生は何を返すのだろうか——

→ 第1話から読む

「母が、倒れたのは、三年前の冬でした」

川口さんは川面のほうを見たまま、そう言った。

「夜、お風呂から上がってテレビを見ていたら、急に呂律が回らなくなって、そのまま椅子から崩れたって。父はもう十年前に亡くなっていたので、隣の家の方がたまたま様子を見に行ってくださって、救急車を呼んでくれたんです」

「ええ」

「脳梗塞でした。命は取り留めましたけど、左半身がほとんど動かなくなって。話すのも、ゆっくりじゃないと難しくなりました」

私は、お茶をひとくち含んだ。

「お母さま、おひとりで暮らしていらしたんですね」

「はい。父が亡くなってからは、ずっと。私が一人っ子なので、ほかに頼れる兄弟もいなくて」

——

「最初の半年は、入院とリハビリで毎週末、車で往復していました」

川口さんがお茶をひとくち飲んだ。

「実家までは車で四十分くらいです。土曜の朝に出て、母のところで一日過ごして、夕方に戻ってくる。その繰り返しでした」

「平日は」

「平日は訪問看護とデイサービスを入れて、なんとか。私は仕事があるので、日中は人に頼るしかなくて。でも、ケアマネさんとの打ち合わせとか、病院の予約とか、薬の手配とか、そういうことは全部、私がやっていました」

「お一人で、ですね」

「はい。一人で、です」

そこで、川口さんの息がわずかに浅くなった。けれど彼女はその浅さを、自分でひと呼吸かけて整え直した。

「夫は、最初、『大変やね』って言いました。それだけでした」

——

私は何も言わずに、続きを待った。

「私、最初は、それでもいいって思っていたんです」

川口さんは、両手を膝の上で組み直した。

「母のことは、私の家族のことだから。夫の親じゃないし、夫がそこまで関わる必要はないって。実際、夫の両親はまだお元気で、夫が何かをする必要もない時期でしたし」

「ええ」

「でも、半年が一年になり、二年になりました。母の状態はよくはなりません。リハビリで少し動けるようになっても、また風邪を引いて入院したり、誤嚥性肺炎になったり。そのたびに私は仕事を早退して、夜中に病院に行って、翌朝そのまま会社に出る、みたいなことを、ずっと続けてきました」

「ええ」

「気づくと、有休はほぼ介護で使い切っていました。自分のために休んだことは、たぶん二、三年ありません」

——

「先月のことです」

川口さんが、湯呑みから手を離した。

その指先が、お盆の縁に触れた。指の節がほんの少しだけ白くなっていた。

「母がまた熱を出して、月曜日に通院することになりました。介護タクシーは予約できたんですけど、診察の付き添いには家族がどうしても要るんです。私はその日、外せない会議があって、どうしても午前中は職場を離れられなくて」

「ええ」

「夫にお願いしたんです。仕事は外回りで、月曜の午前は比較的時間が取れる人なので。母の家まで先に行ってもらって、介護タクシーが来るのを待っていてほしい。診察には私もお昼休みに合流するから、って」

私は、そっと頷いた。

「夫はそのときは、わかったって言いました。でも、その夜です」

川口さんが、ひと呼吸、置いた。

「夫が、夕食のあとで、こう言ったんです」

——

「介護は、お前の家族の問題だろ」

それを口に出して言った瞬間、川口さんの目が私のほうにまっすぐ向いた。

その目は、泣いていなかった。

涙の代わりに、何かもっと低いところで、しずかに点いた光があった。

「俺の親じゃない、って。お前はそれを俺に手伝わせるのはおかしいって。俺だって仕事してるのに、月曜の午前から義理の親の介護タクシーを待つなんて、他人が聞いたら笑うって」

「川口さんは、なんて、お返しになったんですか」

「最初は、何も言えませんでした」

川口さんの声が、少しだけ低くなった。

「ただお皿を洗っていました。背中を向けて。手だけが動いていて。頭の中は真っ白で。何かがすうっと抜けていくみたいでした」

「ええ」

「でも、お皿を洗いながらだんだんと、おかしいなって思ったんです」

「おかしい、というのは」

川口さんが、私を見た。

「私、二十年この人と暮らしてきました。この人の出張のときの服を畳んで、この人の海外旅行のお土産話を聞いて、この人の両親への盆暮れの挨拶を、毎回私が手配してきました」

「ええ」

「なのに、私の母のことを『お前の家族の問題』って、この人は言うんですね」

——

川面が、夕方の風でふと立った。

私は、川口さんの目をまっすぐに見ていた。

その目に宿った光は、声を荒げるたぐいのものではなかった。けれど二十年の時間が、その奥のほうでゆっくりと、ひとつの形に固まりはじめていた。

「先生」

川口さんが、言った。

「私、その夜お皿を洗いながら、はじめて思ったんです」

「はい」

「この人は、私の家族ではないんだな、って」

本作「夫に期待するのをやめます」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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