本作のあらすじ
「夫婦なのに、私はずっと、孤独でした」——
東京の郊外から京都まで、ひとりの女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
母の介護、フルタイムの仕事、そして夫の無関心。「介護はお前の家族の問題だろ」と言い放った夫の言葉が、二十年近い結婚生活のなかに張りつめてきた孤独を、ついに表に引きずり出した。
夫婦という形のなかで、ひとり立ち尽くしてきた女性に、たま先生は何を返すのだろうか——
「母が、倒れたのは、三年前の冬でした」
川口さんは川面のほうを見たまま、そう言った。
「夜、お風呂から上がってテレビを見ていたら、急に呂律が回らなくなって、そのまま椅子から崩れたって。父はもう十年前に亡くなっていたので、隣の家の方がたまたま様子を見に行ってくださって、救急車を呼んでくれたんです」
「ええ」
「脳梗塞でした。命は取り留めましたけど、左半身がほとんど動かなくなって。話すのも、ゆっくりじゃないと難しくなりました」
私は、お茶をひとくち含んだ。
「お母さま、おひとりで暮らしていらしたんですね」
「はい。父が亡くなってからは、ずっと。私が一人っ子なので、ほかに頼れる兄弟もいなくて」
——
「最初の半年は、入院とリハビリで毎週末、車で往復していました」
川口さんがお茶をひとくち飲んだ。
「実家までは車で四十分くらいです。土曜の朝に出て、母のところで一日過ごして、夕方に戻ってくる。その繰り返しでした」
「平日は」
「平日は訪問看護とデイサービスを入れて、なんとか。私は仕事があるので、日中は人に頼るしかなくて。でも、ケアマネさんとの打ち合わせとか、病院の予約とか、薬の手配とか、そういうことは全部、私がやっていました」
「お一人で、ですね」
「はい。一人で、です」
そこで、川口さんの息がわずかに浅くなった。けれど彼女はその浅さを、自分でひと呼吸かけて整え直した。
「夫は、最初、『大変やね』って言いました。それだけでした」
——
私は何も言わずに、続きを待った。
「私、最初は、それでもいいって思っていたんです」
川口さんは、両手を膝の上で組み直した。
「母のことは、私の家族のことだから。夫の親じゃないし、夫がそこまで関わる必要はないって。実際、夫の両親はまだお元気で、夫が何かをする必要もない時期でしたし」
「ええ」
「でも、半年が一年になり、二年になりました。母の状態はよくはなりません。リハビリで少し動けるようになっても、また風邪を引いて入院したり、誤嚥性肺炎になったり。そのたびに私は仕事を早退して、夜中に病院に行って、翌朝そのまま会社に出る、みたいなことを、ずっと続けてきました」
「ええ」
「気づくと、有休はほぼ介護で使い切っていました。自分のために休んだことは、たぶん二、三年ありません」
——
「先月のことです」
川口さんが、湯呑みから手を離した。
その指先が、お盆の縁に触れた。指の節がほんの少しだけ白くなっていた。
「母がまた熱を出して、月曜日に通院することになりました。介護タクシーは予約できたんですけど、診察の付き添いには家族がどうしても要るんです。私はその日、外せない会議があって、どうしても午前中は職場を離れられなくて」
「ええ」
「夫にお願いしたんです。仕事は外回りで、月曜の午前は比較的時間が取れる人なので。母の家まで先に行ってもらって、介護タクシーが来るのを待っていてほしい。診察には私もお昼休みに合流するから、って」
私は、そっと頷いた。
「夫はそのときは、わかったって言いました。でも、その夜です」
川口さんが、ひと呼吸、置いた。
「夫が、夕食のあとで、こう言ったんです」
——
「介護は、お前の家族の問題だろ」
それを口に出して言った瞬間、川口さんの目が私のほうにまっすぐ向いた。
その目は、泣いていなかった。
涙の代わりに、何かもっと低いところで、しずかに点いた光があった。
「俺の親じゃない、って。お前はそれを俺に手伝わせるのはおかしいって。俺だって仕事してるのに、月曜の午前から義理の親の介護タクシーを待つなんて、他人が聞いたら笑うって」
「川口さんは、なんて、お返しになったんですか」
「最初は、何も言えませんでした」
川口さんの声が、少しだけ低くなった。
「ただお皿を洗っていました。背中を向けて。手だけが動いていて。頭の中は真っ白で。何かがすうっと抜けていくみたいでした」
「ええ」
「でも、お皿を洗いながらだんだんと、おかしいなって思ったんです」
「おかしい、というのは」
川口さんが、私を見た。
「私、二十年この人と暮らしてきました。この人の出張のときの服を畳んで、この人の海外旅行のお土産話を聞いて、この人の両親への盆暮れの挨拶を、毎回私が手配してきました」
「ええ」
「なのに、私の母のことを『お前の家族の問題』って、この人は言うんですね」
——
川面が、夕方の風でふと立った。
私は、川口さんの目をまっすぐに見ていた。
その目に宿った光は、声を荒げるたぐいのものではなかった。けれど二十年の時間が、その奥のほうでゆっくりと、ひとつの形に固まりはじめていた。
「先生」
川口さんが、言った。
「私、その夜お皿を洗いながら、はじめて思ったんです」
「はい」
「この人は、私の家族ではないんだな、って」








