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夫に期待するのをやめます ②

本作のあらすじ

「夫婦なのに、私はずっと、孤独でした」——

東京の郊外から京都まで、ひとりの女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。

母の介護、フルタイムの仕事、そして夫の無関心。「介護はお前の家族の問題だろ」と言い放った夫の言葉が、二十年近い結婚生活のなかに張りつめてきた孤独を、ついに表に引きずり出した。

夫婦という形のなかで、ひとり立ち尽くしてきた女性に、たま先生は何を返すのだろうか——

→ 第1話から読む

「夫婦って、なんなんでしょうか」

その問いを、川口さんはもう一度繰り返さなかった。

私も、答えなかった。

代わりに、ひとつだけゆっくりと首を傾けた。

「川口さん。今日は、最初から順番に、聞かせてくださいませんか」 「最初から、ですか」 「ええ。お話の出口は、急がなくて、いいんです」

川口さんが、小さく頷いた。

——

「夫と知り合ったのは、二十二の春でした」

川口さんは湯呑みを両手で包んで、川面のほうを見ていた。

「同じ大学のサークルで。三年違いの先輩でした。一度の食事に何度も誘ってもらって、半年くらい経って、はじめておつき合いしました」 「ええ」 「卒業して、私は東京の中堅メーカーに入って、夫はメーカー系の専門商社に。電車で三十分くらい離れた支社にいて、週末ごとにどちらかの部屋に行き来していました」

私は黙って、湯呑みを少し回した。

「結婚しよう、って言われたのは、私が二十六のときです」

「すぐに、お返事できましたか」

「すぐ、だったと思います」

川口さんははじめて、こちらを見た。

「迷うっていう感覚を、あの頃の私はあんまり持っていなくて。誘われたから乗る、みたいなところがありました。誰かに何かを決めてほしいと、ずっと思っていたんだと思います」

「そうですか」

「両親も、喜んでくれました。母は、ずいぶんと泣いて」

ふっと、川口さんの口元がやわらかくなった。母の話をする顔だった。

——

お料理が、運ばれてきた。

筍の若竹煮、鯛の昆布じめ、青いお豆の真薯。京都の五月そのものが、お盆のうえに、小さく載せられていた。

「いただきます」

川口さんが、両手を合わせた。所作のひとつひとつが、丁寧だった。

二、三口、お料理に箸をつけてから、川口さんは続けた。

「結婚してからは、ずっと二人だけの暮らしです。子どもは、いません」

その「いません」は、まるでお料理の盛りつけのことでも報告するかのような平らかさで、置かれた。けれどその平らかさのうしろには、たぶん、何度も自分の中で折りたたみ直してきた長い物語があるのだろう。

「そうですか」

「最初の頃、欲しいねって話はしました。でもなんとなく、できないままに何年か経って。お互い、仕事のほうが忙しくなって、いつの間にかその話はしなくなりました」

そう一気に言いきった川口さんの口元には、同じ説明を何度も反復してきた人特有の、わずかな疲れがあった。

「川口さんの中では、それは、納得のいくお話でしたか」

川口さんが、しばらく黙った。

「……分からないんです」

そう答えた声は、最初に戻っていた。穏やかで、丁寧で、けれどほんの少しだけ低い。

「分からない、って言うか、考えるのを止めてきたところがあって」

——

「夫は」

少し息を整えてから、川口さんは続けた。

「自分の時間を、とても大事にする人なんです」

「ええ」

「平日の夜はたいてい、飲み会です。週末は、ゴルフに行ったり、釣りに行ったり。年に二、三回は男友達と海外にも行きます」

「お一人で、ですか」

「はい。私が誘われることは、ほとんど、ないです」

川口さんは、それを淡々と話した。怒りも、寂しさも、にじませずに。

「結婚した当初から、お互いに干渉しないっていうのが、私たちのスタイルでした。私も働いていましたし、家事もそれぞれできるほうがやる、って感じで」

「ええ」

「夫はそれを、いい夫婦だって言ってきました。世間の夫婦みたいに束縛し合わなくていい、って」

「川口さんは、それを、どう思っていらしたんですか」

川口さんが、ふっと笑った。

「最初の頃は、私もそう思っていたと思います。自由でいられるって。実際、職場の同期の話を聞くと、みんなご主人の世話で大変そうで」

「ええ」

「でも、二十年やってきて、いつの間にか自由は別のものに変わっていました」

私は続きを待った。

「自由っていうのは、そばに誰かがいるから感じられるものなんですね。誰もそばにいなかったら、それはただの——」

そこで、川口さんの言葉が、止まった。

——

川面を、また、新緑の影が流れていく。

私は自分の湯呑みに、少しだけ熱いお茶を注ぎ足した。

「川口さん」

「はい」

「『ただの』のあとは、急いで言葉にしなくて、いいですよ」

川口さんは、私の目をまっすぐに見た。

それから、視線を膝のあたりに落として、ぽつり、と続けた。

「ただの、ひとり、なんですよね」

——

しばらくの沈黙のあと、川口さんはお料理にもう一度、箸を伸ばした。

「すみません。せっかくのお食事なのに」 「いいえ。ゆっくり、いただきましょう」

筍を、川口さんはひと切れ口に運んだ。

噛みしめながら、こう言った。

「先生。母のことを、お話ししてもいいですか」

「ええ。聞かせてくださいね」

川口さんが、箸を置いた。

その背筋が、ふっと、まっすぐに伸びた。

——いま、この方の中でほんとうの話が、はじまろうとしている。

私はそう感じて、自分の呼吸を相手のそれに合わせた。

本作「夫に期待するのをやめます」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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