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夫に期待するのをやめます ①

本作のあらすじ

「夫婦なのに、私はずっと、孤独でした」——

東京の郊外から京都まで、ひとりの女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。

母の介護、フルタイムの仕事、そして夫の無関心。「介護はお前の家族の問題だろ」と言い放った夫の言葉が、二十年近い結婚生活のなかに張りつめてきた孤独を、ついに表に引きずり出した。

夫婦という形のなかで、ひとり立ち尽くしてきた女性に、たま先生は何を返すのだろうか——

スタジオの赤ランプが、すっと消えた。

そのランプが点いているあいだ、自分の声は自分の体から少しだけ離れた場所にあるような気がしている。誰が聴いているか分からない、けれど確かに誰かが聴いている——そういう種類の距離を持った声を、月にいちど、第一金曜日の午後だけ、私はマイクに向かって出している。もう十年以上続けてきた習わしだった。

「お疲れさまでしたー」

ガラスの向こうで、ディレクターの宇野うのさんが、マイクに頭を下げた。番組がはじまった頃から、ずっと変わらない仕草である。私もヘッドフォンを外して、同じように頭を下げ返した。

赤ランプが消えるたびに、声はゆっくりと自分の体に戻ってくる。今日の最後にかけた一曲は、ギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」だった。曲名どおりの孤独を誰のために選んだのかは、自分でもよく分からないままで、選曲表のいちばん下に書いておいた。

「ええ感じでしたよ、今日も」

控室に戻ると、宇野さんが麦茶のコップを差し出してくれた。冷たい水滴が、コップの腹をゆっくりと伝っていた。

「最後の曲、ちょっとだけ長めに残してくれはって、よかったです」 「五月って、ああいう曲が、似合う季節ですよね」

宇野さんとは、もう十年以上の付き合いになる。けれど私たちはいつも、こうした他愛のない言葉だけを交わして、それぞれの日常へ戻っていく。番組が終わってからの三十分ほどが、私にとってはいちばん体の力が抜ける時間だった。マイクの前で張りつめていた何かが、麦茶のひと口でゆっくりとほどけていく。

机のスマホを取った。

メッセージが、ひとつ届いていた。

差出人は、川口かわぐちさん。これまでに何度か、画面越しにお話を聞いてきた方である。お母さまの介護をしながら、東京の郊外でフルタイムでお仕事を続けていらっしゃる。最後にお会いしたのは、ふた月前くらいだっただろうか。

文面は、短かった。

「先生」

「夫婦なのに、私はずっと、孤独でした」

「一度だけ、京都までうかがって、お話を聞いていただけませんか」

——

私は麦茶のコップに、しばらく目を落としていた。

Zoomでの川口さんの声を、思い返してみる。穏やかで、丁寧で、こちらの問いには必ず一拍置いてから答える方だった。決して自分の苦しみを大きく語る方ではない。むしろ私のほうから、「川口さん、ご自分のことも、もう少し話してくださいね」とお願いするような相談者さんだった。

その方からの、この一通である。

スマホのキーボードに、指を置いた。

——「いつでもご都合のよい日に」と書きかけて、消した。事務的すぎる気がした。日常の連絡で交わすひとことが、いま川口さんに届く言葉ではないのだということを、自分の指のほうが文字より先に知っていた。

——「何度でもお話、聞かせてくださいね」とも書きかけて、消した。励ましは、いま、この方が必要とされているものではない。

迷った末に、私は、短くこう打った。

「お会いしましょう」

送信ボタンを押した。すぐに、既読のしるしが小さく点いた。

返信は、思っていたよりも早く届いた。

「ありがとうございます。京都まで、参ります」

短い一文に、長く堪えてきた人の呼吸がこもっていた。打ち返すのに何分もかからなかったその速さの裏側には、たぶん、長い年月のあいだ「来てもいいですよ」と言われるのを待ってきた誰かがいたのだろう。

——

会う場所のことを、私はしばらく考えた。

川口さんはお忙しい方である。せっかく東京から来ていただくのだから、長くゆっくり話せる場所がいい。けれど、街中の喫茶店のようなところでは、川口さんはたぶん、ご自分の声を最後まで出しきれない。

頭に浮かんだのは、貴船だった。

五月のはじめは、ちょうど川床の開く季節である。京都市内よりだいぶ涼しくて、山の懐にひと足踏み込んだような静けさがある。観光のシーズンが本格化する前のいまだけ、客足はまばらだった。

予約を入れた。一番奥まった、川にいちばん近い席を頼んだ。

——

五月の、二週目のある日の昼下がり。

叡山電鉄の貴船口駅で降りて、バスに乗り換える。山道を上るバスの窓から、新緑が眼に飛び込んでくる。京都の街中の緑とは、密度がまるで違う。光が葉と葉のあいだで、何度も折り返されながら届いてくる。

川床の店の前で降りた。

簾を渡した床が、川面のすぐ上に組まれている。靴を脱いでその上に上がった。冷えた風が、足元から首筋へとすっと抜けていく。

少し早めに着いたので、お茶だけ先に運んでもらった。

向かいに置かれた座布団は、まだ誰のものでもなかった。

——

「先生」

声がしたのは、その十五分ほどあとのことだった。

振り返ると、川口さんが店の人に案内されながら、こちらへ歩いてきていた。

紺色のリネンのワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っている。バッグを胸の前に軽く抱えるようにして、足元の段差をひとつひとつ確かめながら下りてくる。何度通った場所でも、こうした川辺の段差を下りるときには、人は皆、自分の体を一段ずつ確かめながら下りてくるものだ——その姿を、私は座ったまましばらく見ていた。

「ようこそ、おいでくださいました」

私は立ち上がって、頭を下げた。川口さんも深く頭を下げ返した。Zoomの画面で何度も見てきたはずのその姿は、目の前に立つと、画面越しに思っていたよりずっと細く、薄く見えた。長い年月をかけて自分の輪郭を、自分自身で少しずつ削ってこられた人——そういう佇まいだと、私は思った。

「川口です。今日は、本当に、お時間を」 「いえ、こちらこそ、こんな遠くまで。お疲れになったでしょう」 「いえ。電車のなかで、ずっと、川を見ていました」

座布団に膝を折って、川口さんはそう言った。

「川って、見てるとなんだか、安心するんですね」

私は、向かいに座り直した。

その一言は、川口さんがここに着くまでの長い時間を、私の側にそっと預けてくださった言葉だった。新幹線の窓の向こう、東海道沿いに流れていったいくつもの川——多摩川、富士川、安倍川、天竜川、木曽川——を、川口さんはいま、自分の中でもう一度見ているのだろうと思った。

「そうですね」

私はそう短く返したけれど、その「そうですね」のなかには、川口さんが車窓越しに過ごしてきた何時間かを、私の側でもいちど受けとめておきたいという気持ちがこもっていた。

「先生は、よく、こちらに?」 「年に何度かだけです。長いお話になりそうなときに、ふっとここを思い出すんです」

川口さんが、ちいさく笑った。今日、はじめて見せた表情だった。けれどその笑みは、目の縁までは届かなかった。

お品書きを置きに来てくれた店の方に、お料理だけ、お任せでお願いした。

二人のあいだに、川の音が流れた。

しばらく、どちらも何も言わなかった。

私は、川口さんの手元をそっと見た。湯呑みを包んだ指は、節のあたりが少しだけ赤くなっている。長く水仕事をしてきた人の手だった。それから、机の上でもう一方の手を握り直した。何かを言い出す、ひと呼吸前の動作だった。

「先生」

川口さんが、湯呑みから手を離した。

「今日は、ひとつだけ聞いていただきたいことがあって来ました」

「はい」

「結婚して、もうすぐ、二十年になります」

「ええ」

「夫婦って、なんなんでしょうか」

その問いは、川口さんの口から出たというよりは、川口さんの中を長い時間さまよってきて、ようやく今日、口の縁にたどり着いたものだった。

私は、すぐには答えなかった。

川面を、いちまい、新緑の影が流れていった。

本作「夫に期待するのをやめます」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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