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明日、離婚届を出します ③

本作のあらすじ

「明日、離婚届を出します」——

横浜からはるばる京都まで、ひとりの五十歳の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。

義実家との同居、二十年。祖母の介護、義姉の子の世話、夫の無関心。長く重ねてきた我慢の果てに、ようやくたどり着いた決断。出す前に、もう一度だけ誰かに聴いてほしかった——その想いを胸に、彼女は鴨川沿いの古い喫茶店の窓辺に座る。

二十年の話を聴き終えたとき、たま先生は彼女に、何を返すのだろうか——

→ 第1話から読む

私は、すぐには答えなかった。

その問いの答えは、私が出すべきものではないのだと、私は知っていた。林さん自身が、いま、その答えを探している途中だった。答えを先回りして言葉にしてしまえば、それは林さんの答えにはならなくなる。

私は、自分が職業として身につけてきた最も大切なことのひとつを、こういう瞬間にこそ思い出す。それは、ただ隣に居る、ということだった。隣に居て、相手の探し物の傍らで、静かに呼吸を揃える。それが、私のできる、いちばん意義のあることなのだと、十年以上、相談を受けてきたなかで、私は繰り返し教わってきた。

——

「うちは、息子が一人いるんです」

しばらくして、林さんが、また話し始めた。

「Zoomでも、お話しさせてもらいましたね」

「はい」

「あの子が、小さい頃から、ずっと見ていたんだと思います。私が、何も言わずに動いていることを」

林さんは、コーヒーカップに手を添えたまま、視線を窓の外に向けた。新緑の影が、彼女の頬の輪郭で、揺れていた。

「去年、社会人になったんです、息子が」

「もう、独立されたんですね」

「はい。一人暮らしを始めて、すぐの頃。突然、家に来たんです」

「ご主人のお家に」

「そうです。たぶん、何かを言いに来たんだと思います。あの子なりに、考えて」

林さんが、少しだけ目尻を下げた。それは、この日初めての、母親の顔だった。母というものの輪郭は、子どものことを思い出すとき、ふっと別人のように立ち現れる。私は、その変化を見るのが、いつも好きだった。

——

「夕食を、一緒に食べました」

林さんは、その日のことを話し始めた。

「久しぶりだったので、私も少し、はしゃいでいたかもしれません。夫は、いつものようにテレビを観ていました。息子と私の会話には、ほとんど入ってきませんでした」

それが、ご主人という方だった。私は、それを言葉にしないでおいた。言葉にしなくてもよいことを言葉にしないというのも、また、こちらの仕事のうちである。

「食事のあと、息子が、こう言ったんです」

林さんが、コーヒーカップから手を離した。テーブルの上に、両手を、ゆっくりと置いた。手のひらが、テーブルクロスの感触を確かめるように、平らになった。

それから、息子の言葉を、自分の口でなぞった。

「母さん。もう、我慢しなくていいんだよ」

声に出したあと、林さんはしばらく目を閉じた。閉じた瞼の奥で、その短い言葉が、もう一度こだましているのが、見えるようだった。

「もう一度、言ってもいいですか」

「もちろんです」

「母さん。もう、我慢しなくていいんだよ」

——その瞬間、林さんの目から、ふっと、涙がこぼれた。

ずっと張られていた薄い膜が、その短い言葉に、とうとう破られた——という落ち方だった。涙は、頬を伝うのではなく、まず、瞼から顎に向かって、まっすぐに落ちた。それから、二粒目、三粒目と、追いかけるように続いた。

私は、ハンカチを取り出して、林さんの前にそっと置いた。

「ありがとうございます」

林さんはハンカチを手に取った。けれど、しばらくのあいだ、目元には当てずに、ただ膝の上で、ぎゅっと握っていた。涙を拭うことより先に、まず、この涙を流していい、ということを、自分に許す時間が要るのだ、と私は思った。

肩が、小さく震えていた。

それは、二十年分の、声にしてはいけなかった涙だった。

声にすれば、嫁失格と言われる。声にすれば、ご主人を悪く言ったことになる。声にすれば、家のことが外に漏れる。声にすれば、と数えるうちに、林さんは自分の涙の出し方さえ、いつしか忘れていったのだろう。

忘れていた涙が、今、息子の声に呼ばれて、二十年ぶりに、戻ってきている。

私は、自分のコーヒーカップから手を離さなかった。代わりに、林さんが流すひとつぶ、ひとつぶの涙を、心のなかで、静かに受け止めていた。

それが、私がいま、この場所でできる、いちばん大切なことだった。

——

しばらくして、林さんは顔を上げた。

「先生」

「はい」

「私、これまでずっと、思ってきたんです」

「ええ」

「私が至らないからだ、私が我慢が足りないからだ、って」

「……」

「でも、息子が、そうじゃないって言ってくれた」

林さんの目に、もう一度、新しい涙が浮かんだ。けれど、今度の涙は、さきほどとは違う形をしていた。何かを赦された人の涙だった。

「先生、私、明日、離婚届を出します」

林さんは、もう一度、その言葉を口にした。最初に喫茶店で言ったときよりも、ずっと、まっすぐな声だった。

「でも、先生」

林さんは、私の目をまっすぐに見た。

「これから、生きていけるでしょうか。私……五十歳から、人生をやり直してもいいんでしょうか」

本作「明日、離婚届を出します」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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