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明日、離婚届を出します ②

本作のあらすじ

「明日、離婚届を出します」——

横浜からはるばる京都まで、ひとりの五十歳の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。

義実家との同居、二十年。祖母の介護、義姉の子の世話、夫の無関心。長く重ねてきた我慢の果てに、ようやくたどり着いた決断。出す前に、もう一度だけ誰かに聴いてほしかった——その想いを胸に、彼女は鴨川沿いの古い喫茶店の窓辺に座る。

二十年の話を聴き終えたとき、たま先生は彼女に、何を返すのだろうか——

→ 第1話から読む

「林さん」

私はゆっくりと、彼女の名前を呼んだ。

「答えを急がなくて、大丈夫ですよ。今日はそのために、ここまで来てくださったんですから」

林さんが、小さく頷いた。心持ちだけ、肩のあたりが緩んだ気がした。緊張という鎧は、不思議なほど早く脱げるときと、なかなか脱げないときがある。林さんの場合は、二十年分の癖になっていた何かが、いまようやく、ほどけ始めようとしているのだろうと思った。

「最初から、お話ししてもいいですか」

「もちろんです」

私は、コーヒーをひとくち飲んだ。長い話の支度が要る午後だった。話の長さに付き合うというのは、私にとっては、むしろ仕事の本体に近い。沈黙を恐れず、相手の言葉を待つことができるかどうか——その一点に、十年余りの時間が、結晶のように溜まってきている。

——

林さんが結婚したのは、二十八歳のときだった。

ご主人の実家は、東京から少し離れた郊外の一軒家。義両親と、ご主人の祖母が、ひとつ屋根の下で暮らしていた。同居の話は結婚前から決まっていて、家のしきたりとして揺るがなかった、と林さんは言った。

「断れる雰囲気では、なくて」

林さんはそう言いながら、ふっと視線を窓の外に逃がした。新緑の影が、彼女の頬の輪郭を撫でて通り過ぎていった。

私は何も挟まずに、頷くだけにとどめた。二十年分の言葉が、彼女のなかで、いま順番に押し出されてきている。それを、こちらの相槌で堰き止めてしまっては、流れが変わってしまう。

——

最初の数年は、なんとかなったのだという。

朝は早起きして、義両親と祖母の朝食を整える。それから自分の身支度を済ませて、勤めに出る。ご主人は共働きを希望していた。家計のためでもあったが、それ以上に「妻が家にいる」ということに対する、どこか居心地の悪さが、ご主人にはあったのではないか——林さんは、そんなふうに、いま振り返って思うのだと言った。

「ただ、家事のことで夫が手を貸すという発想は、なかったんです」

林さんの口元が、ふっと、苦笑のような形に動いた。それは笑いというより、長い諦めの結晶だった。諦めというものは、突然形になるのではなくて、何年もかけて少しずつ厚みを増していくものなのだと、私はその表情から教わった気がした。

「私が休みの日は、義姉のお子さんを預かることもありました」

「義姉の?」

「夫の姉で、近くに住んでいて。子どもが二人います。共働きだから、どうしても、と頼まれて」

「断ることは——」

「できる雰囲気では、なくて」

林さんは、また同じ言葉を繰り返した。その響きの中に、二十年の重さが、丸ごと折りたたまれていた。

——

「五年ほど前から、祖母の介護が始まりました」

林さんが、視線を少し落とした。

「その頃には、義両親も体調が良くなくて。気づいたら、祖母の介護のほとんどが、私の役割になっていました」

「ご主人の方は」

「夫は、何も」

短い答えだった。それ以上を説明しないところに、ご主人という方の輪郭が、かえってはっきりと浮かび上がった。説明されない人の輪郭ほど、雄弁なものはない。

「祖母をトイレに連れていくのも、お風呂に入れるのも、夜中に起きて様子を見るのも」

林さんはコーヒーをひとくち口にした。

「全部、私の仕事になっていきました」

私は何も言わなかった。ただ、自分のコーヒーカップを両手で包んだまま、林さんの言葉のひとつひとつを、胸のなかにゆっくりと沈ませていた。沈めるのも、また仕事のうちである。

「先生」

林さんが、ふと顔を上げた。

「私、いつから、自分のことを考えなくなっていたんでしょうね」

その問いに、私は、すぐには答えなかった。

本作「明日、離婚届を出します」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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