鳴りやまないLINEの通知と、真っ白な入力欄
リビングのソファでテレビをぼんやり眺めていると、テーブルの上のスマホがブルブルと震え続けた。昔からの友人たちのLINEグループだ。一人が「最近、親の介護で少し疲れてしまって」とこぼしたのをきっかけに、次々と温かい励ましのメッセージが飛び交っている。
「それは大変だったね、無理しないでね」
「いつでも愚痴を聞くからね」
次々と更新される画面をスクロールしながら、私は深いため息をついた。
文字入力欄にカーソルを合わせるものの、指がピタリと止まってしまう。気の利いた言葉が一つも浮かばないのだ。
相手の気持ちに寄り添い、気の利いた言葉を返す。そんな大人として当たり前のことが、私にはどうしてもできなかった。何度か文字を打ち込んでは消し、結局無難な「お辞儀のスタンプ」を一つ送るのが精一杯だった。
「この年になって」という自己嫌悪の呪縛
スマホを伏せて、暗い画面にぼんやりと反射する自分の顔を見つめる。
「この年になって、まだこんなこともできないのか……」
還暦を過ぎ、それなりに人生経験を積んできたはずなのに。周りの友人たちがごく自然に気遣いの言葉をかけ合っているのを見るたび、自分の気の利かなさ、冷たさが浮き彫りになるようで心底惨めだった。
誰かが困っているとき、すっと心をすくい上げるような優しい人になりたい。そう願っているのに、いざとなると言葉が詰まり、相手との距離の詰め方がわからなくなる。
私は他人の痛みに共感できない欠陥品なのではないかと、自分自身をひどく嫌悪する泥沼から抜け出せずにいた。
上手な言葉よりも、愛のバトンを
キッチンに立ち、温かいお茶を淹れながら、ふと立ち止まった。湯気越しに見る夜の窓ガラス。
……待てよ。
私は友人たちのやり取りを見て「素敵だな」「優しいな」と感じている。悩んでいる友人にどう返せばいいか、苦しいほど心を砕いている。
他人の優しさに気づけるということは、私自身の中にも相手を思いやる「温度」がちゃんとあるからではないのか。
自分で自分を「人に気遣いもできない人間だ」と決めつけ、さげすむのは、今まで一生懸命生きてきた自分自身に対してあまりにも失礼だ。
そうだ、完璧で気の利いた名言なんて、最初から探さなくていい。
「上手な言葉じゃなくていい。ただ、相手が少しでもホッとするような、愛のある返事をしよう」
自分が言われて嬉しい言葉、「あ、幸せだな」と心が温かくなる言葉。それを、次の人へ手渡す「バトン」のようにただ送ればいいのだ。
私はもう一度スマホを手に取り、ゆっくりと文字を打ち始めた。「気の利いたことは言えないけれど、〇〇さんが今夜少しでもゆっくり眠れますように」。
送信ボタンを押すと、ずっと胸の奥につかえていた冷たいしこりが、ふっと溶けていくのを感じた。







