本作のあらすじ
「もう、大丈夫です」——
関西のある街から京都の嵐山まで、二十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
数年間の片想いの末に、突然連絡先をブロックされた。彼に認められたいと願ってきた自分の正体に、彼女はようやく気づきはじめている。それでも夕方になるたびに、胸の奥で小さく崩れていく音が止まない。
梅雨晴れ間の渡月橋のたもとで、たま先生はその人にどんな時間を返すのだろうか——
ベンチから立ち上がられた中川さんを、私は橋のほうまでお見送りした。
夕方の光は、もう、川向こうの嵐山の稜線のいちばん上のところだけに残っていた。橋の欄干も、舗装の道のうえも、薄い橙のなかに沈みかけている。観光のバスが一台、遠くで小さくクラクションを鳴らした。
「先生」
「はい」
「私、阪急で帰ります。河原町まで出て、それから家まで」
「お気をつけて」
中川さんは、もう一度深く頭を下げて、橋の北側のほうへ歩きはじめた。歩幅は来たときよりも、ほんのすこしだけ大きい。
私は、橋のたもとに、しばらく立っていた。声をかけることは、もう、しなかった。中川さんがベンチで並べていらっしゃった三つのこと。あれに何かを足してしまうと、ご自分のかたちから一センチだけずれてしまう。「お気をつけて」のひと言を置いて、あとはただ、見送る。それが今日の私の役割だった。
紺色のショールが、夕方の光のなかでひと揺れしてから、向こう岸のほうへ消えていった。
——
家に着いたのは、夜の七時を少し回った頃だった。
玄関の鍵を回して、狭い廊下に鞄を置いた。廊下の明かりだけ点けたまま、しばらく上がり框のところに腰を下ろした。中川さんは今頃、河原町に着いたあたりで、お夕飯のことを考えていらっしゃるかもしれない。明日の朝のお味噌汁のために、お豆腐とお揚げを買いに寄っていらっしゃるかもしれない。そういう寄り道のなかにこそ、ご自分のことを認める、というはじまりがある。
——
二週間ほどが経った、ある日の午後だった。
ポストを覗いたら、白い封筒が一通だけ、届いていた。
差出人の欄には「中川」という名前だけが、丁寧な字で書かれていた。便箋をひらくと、ご自分の指で書きつけた文字が、上から下までまっすぐに並んでいた。
私は廊下の明かりの下で、もう一度、その封筒を裏返した。それから台所のほうへ歩いて、お湯をひと口分だけ沸かしてから、薄いお茶を淹れた。
居間の机に座って、便箋をひらいた。
——
たま先生
先日は嵐山まで、ありがとうございました。
あの日のあと家に帰って、いちばんに鞄からショールを出して洗濯機にかけました。先生とお別れしたあとの川風がショールにしみこんでいるような気がして、それを一回、家の洗面所の光の下でゆすいでおきたかったのです。
それから、お味噌汁を、ちゃんと作っています。
煮干しでお出汁をとって、お豆腐とお揚げを入れて、お味噌を溶く。本当に五分くらいのことなのに、私、ここまで誰のためにもちゃんと作ってこなかったんだなと気づきました。
ノートのほうも、毎晩、一行だけ書いています。
先生、夕方のあの三十分のことなんですけれど、最初の三日くらいはやっぱり胸のあたりが押しつぶされそうに苦しかったです。でも四日目の夕方に、ふっと、苦しいというよりも寂しいなあという感じに変わって。五日目には、寂しいなあのままお台所のほうへ自分を運べるようになりました。
彼のことは、まだ、ふと思い出します。
でも先生、私は彼のことを思い出している自分のことを、もう嫌いではなくなったんです。
「いま、ここの私で十分なんだよ」
その言葉を夜寝る前に、自分の枕のあたりでもういちど自分に言ってあげるのが、いまの私のいちばん好きな時間です。
たま先生のお声が月にいちどラジオから流れてくるのを、私はこれからもお台所で聴きます。
ありがとうございました。
中川
——
便箋を閉じて、私はしばらく机のうえで、その封筒を両手で軽く押さえていた。
外は、もう日が暮れたあとの空のいちばん深い青の時間である。窓の向こうから、近所のどこかの家のお風呂を沸かす音が、薄く聞こえていた。
「いま、ここの私で十分なんだよ」
中川さんがあの夕方ご自分の口で形にされたその一文を、私は便箋の文字のなかにもういちど見つけた。
ご自分のためにご自分が言った言葉が、ご自分の毎日のいちばん好きな時間にまで育っている。短いお手紙のなかに、それがはっきりと書かれていた。
——
私はお茶を、ひとくち含んだ。
便箋を、もう一度、いちばんはじめのあいさつのところまで戻した。「たま先生」と書かれた宛名のうえで、ペンの線がほんのすこしだけ揺れていた。書きはじめのときに、その方のなかをひと呼吸の躊躇がよぎった、そういう線である。
便箋を、封筒のなかにそっと戻した。引き出しを開けて、いちばん上のところに、その封筒を立てて入れた。これからときどき、夕方の三十分のあいだに、あの方は私のことを思い出してくださるかもしれない。それは、中川さんのお時間のなかでご自分が決められることだった。
——
廊下の明かりを、消した。
家のなかが、夜の青に薄く沈んだ。明かりを消したばかりの暗さに、外からの夜の青が、ゆっくり馴染んできていた。








