本作のあらすじ
「もう、大丈夫です」——
関西のある街から京都の嵐山まで、二十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
数年間の片想いの末に、突然連絡先をブロックされた。彼に認められたいと願ってきた自分の正体に、彼女はようやく気づきはじめている。それでも夕方になるたびに、胸の奥で小さく崩れていく音が止まない。
梅雨晴れ間の渡月橋のたもとで、たま先生はその人にどんな時間を返すのだろうか——
中川さんの目尻に、ひと粒、薄い水が滲んだ。
ほんの一瞬まばたきをされただけで、それは、消えた。けれどその痕跡は、まだ確かに残っていた。睫毛のいちばん先のところに、夕方の光が、点のかたちでかすかに留まっていた。
「すみません」
中川さんは、自分のショールの端を、軽く指でつまんだ。
「私、ほんとに、もう大丈夫なはずなのに」
「ええ」
「先生にお話できたら、達成報告みたいに笑っておしまいにできると思ってきたんです。なのに、なんで」
中川さんは、すこし首をかしげた。
その仕草は、年齢のわりに、まだ少し幼いものだった。
——
私は、すぐにはお応えしなかった。
代わりに川面のほうへ、ふたり並んでしばらく目を移した。
夕方の光のなかで、桂川の水面はいま橙色とも金色ともつかない薄いひかりの色をしていた。雲の切れ間が、すこしだけ広がってきている。光の帯がさきほどよりも幅を広くして、いまは中州のあたりまで届いていた。
「中川さん」
「はい」
「中川さんが、ご自分のことを『彼に認められたかっただけだった』と気づいてこられたお話、伺っていました」
「ええ」
「そのお気づき、すごくきれいに整理してこられたなと、私のほうも思ってお聞きしていました」
「ありがとうございます」
「ただね」
「ええ」
「整理がきれいに済んでいるからといって、お気持ちまで一緒に終わるとは限らないんですよ」
中川さんは、ふっと、私のほうを向かれた。
「お頭で気づくのと、お身体で受けとめきれるまでとのあいだには、しばらく時間がかかることがあるんですよ」
——
中川さんは、自分の膝のうえの両手を、ゆっくりとほどいた。
「お身体は」
「ええ」
「お頭よりずっと、ゆっくりお歩きになるものなんです」
「ゆっくり」
「ご飯と水が入るところまで戻られて、お友達と笑えるところまで戻られた。それでもまだ夕方になると胸のあたりがうっすら虚しくなる、というね」
「ええ」
「それは、お頭のほうがすでに気づかれた答えに、お身体のほうがまだ追いつけていないからなんですよ」
中川さんは、しばらく、私の言葉のなかで止まっていらした。
ベンチの板のうえで、軽く指の先を動かしておられた。聞いたことを、ご自分の指のかたちのほうにも移してみていらっしゃる、そういう動きだった。
——
「先生」
「はい」
「私、それをもう一回彼のせいにしないようにって、頑張ってきたんです」
「ええ」
「でも、頑張れば頑張るほど夕方が来るたびに、胸のあたりが」
「ええ」
「もう、自分でもどこに置いていいか、分からなくて」
中川さんの声は、そこで、また小さく揺れた。
私はその揺れのなかに、自分の言葉をひとつだけそっと置いた。
「中川さん。お頑張りになる方向を、すこしだけ、変えていただいていいですか」
中川さんが、目を上げた。
「方向、ですか」
「ええ。彼のせいにしないように頑張るのではなくて、いまの中川さんを中川さんが認めるほうへ、お頑張りの矢印を向け直してくださいね」
「いまの私、を、私が」
「認める、です」
中川さんは、ゆっくり、口のなかでその言葉を繰り返された。
——
「自分で自分を誇れるようになりたいって、私、ずっと思ってきました」
「ええ」
「だからいま、自分を認める行動をひとつずつしていこうって決めてきたんです」
「ええ」
「でも、先生」
「はい」
「『誇れるようになる』って、もうちょっと先のことのつもりだったんです。彼を忘れて、新しい自分になって、そのあとで」
「中川さん」
私はその言葉に、すこし首をふった。
「もう十分に、誇れるご自分なんですよ」
——
中川さんは、すこし目を見開かれた。
「いま、ですか」
「ええ。いま、です」
「でも、私、まだ何もできていなくて」
「『何かを得てから、誇れるようになる』のではないんですよ」
「……」
「数年お続けになった片想いとちゃんと向き合われて、そのうえでご自分の本当のお気持ちのかたちにまでたどり着いていらっしゃるんです」
「ええ」
「そこまでなさったご自分のことを、いま、ご自分の手で抱えていただいていいんですよ」
中川さんは、すこしのあいだ、川のほうを見ていらした。
夕方の光の帯が、その方の頬のあたりにいち筋、薄く落ちていた。
「先生」
「はい」
「『いま、ここの私で十分なんだよ』って、自分に言ってもいいんですか」
「もちろん、いいんですよ」
中川さんの目から、もう一粒、水が落ちた。
それを今度は、ご自分でも気にしないままに、川のほうをじっと見ていらした。
水音だけが、私たちのあいだで、ゆっくりと繰り返されていた。








