本作のあらすじ
「もう、大丈夫です」——
関西のある街から京都の嵐山まで、二十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
数年間の片想いの末に、突然連絡先をブロックされた。彼に認められたいと願ってきた自分の正体に、彼女はようやく気づきはじめている。それでも夕方になるたびに、胸の奥で小さく崩れていく音が止まない。
梅雨晴れ間の渡月橋のたもとで、たま先生はその人にどんな時間を返すのだろうか——
私たちは、橋のたもとから少し離れた場所にある、川辺のベンチへと歩いた。
桂川の北側の遊歩道に、欅の木陰がいくつか並んでいる。観光の動線からすこしだけ外れた、地元の方が散歩で使うような区画である。そのいちばん奥のベンチに、私たちは並んで腰を下ろした。
「先生、お忙しいのにすみません」
「いえ。こちらの方こそ、嵐山までお呼びしてしまって」
「川を見たかったんです」
中川さんは、両手を膝のうえにそろえて、川のほうを見ていらした。
「家の近くにも、川はあるんですけど」
「ええ」
「家の近くの川だと、思い出が混じってしまって。彼と最後に会ったのも、私の家の近くの川辺だったんです」
「そうでしたか」
「だから、まったく違う川がよかったんです。先生に会いに行くなら、知らない川がいいって思って」
——
中川さんの声には、夕方の光のなかでも、すこしだけ明るい張りがあった。
電話の向こうの最初のころに聞いた、あの押しつぶされそうな細さは、もうほとんどなかった。ご自分の言葉でご自分の道を選び始めた人の声に、これは少しずつ近づいていらっしゃる。私は隣で、その明るさをそのまま受けとめた。
「先生」
「はい」
「私、もう、大丈夫なんです」
中川さんは、ふっと笑った。
「ブロックされたあの日からは、ぜんぶで五か月くらい経ちました。最初の二週間は、ほんとに、ご飯も水もうまく入らなかったんですけど」
「ええ」
「いまは、ふつうにお仕事も行ってるし、お友達ともふつうに笑えるんです。だから、もう、大丈夫」
「そう、なんですね」
「先生、お忙しいのにわざわざここまで来ていただいて、ほんとうは申し訳なかったんです」
中川さんは、また笑った。今度の笑い方は、目尻のあたりまでちゃんと届いていた。
——
私はうなずきながら、桂川の水面をしばらく見ていた。
水面のうえにいま、雲の隙間からの夕方の光がいち筋長く落ちていた。光の帯が、川の下流のほうへゆっくり伸びていく。流れているのは水のほうなのに、見ている目には、光の帯のほうが流れていくようにも映る。
「中川さん」
「はい」
「もう大丈夫、というそのお気持ちは、私のほうもちゃんとお預かりしました」
「はい」
「ご飯と水が、ふつうに入るようになっていらっしゃる。お仕事に行かれて、ご友人と笑える日が戻ってきていらっしゃる。それは、中川さんがご自分でちゃんと、ここまで歩いてきはったということですから」
「ええ」
「すごいことなんですよ」
中川さんは、ふっと、自分の手の甲のあたりに視線を落とした。
——
「先生」
「はい」
「気づいたことが、あって」
「ええ」
「私、彼のことが純粋に好きだったんじゃないかも、しれないんです」
「ええ」
「彼って、私にないものをたくさん持っていて。仕事ができて人気もあって、私が憧れる場所に先に立っていた人で」
「ええ」
「そんな彼に私という人間を認めてもらえたら、私も自分のことをちょっとは誇れるんじゃないかって。たぶんそういう気持ちが、好きの中身の半分くらいだったんです」
「ええ」
「半分というか、もしかしたら、全部かもしれません」
中川さんは小さく笑って、それから、自分の唇を軽く結ばれた。
——
その口元のかたちは笑いのままで止まっているように見えて、よく見るとすこし違っていた。
笑いの線が、唇の左端のところでほんの少しだけ、震えていた。
「だから、ブロックされたのも、たぶんちゃんと意味があって」
「ええ」
「彼が私のことを認められなかったというより、自分で自分を認められなかった部分が彼に映ってしまっていただけなのかもしれないって」
「ええ」
「そう気づけたから、もう、大丈夫なんです」
中川さんは、川のほうを見ていらした。
その目尻のところで、いままで見ていた笑いの線がふっと別のかたちにすり替わった。
私の側からは、それが、はっきりと見えた。
——
中川さんは、もう一度笑おうとされていた。
笑おうとして、けれど笑いのかたちがその方の顔のうえで最後まで定まらなかった。口元はわずかに上向きのまま、目のほうだけが、ゆっくりと別の方向へ降りていった。
そのあいだに、川風がいち筋、二人のあいだを抜けていった。
風が抜けたあと、中川さんは小さく、ひと呼吸を吸った。
それから、自分の膝のうえの両手を、ゆっくり握り直した。指の節のあたりが、ほんのすこし白くなった。
「先生」
「はい」
「あの、すみません」
「ええ」
「私、もう、大丈夫なはずなんですけど」
中川さんの声がそこで、ふっと揺れた。
「なんで、ちゃんと、笑えなくなるんでしょう」
その問いの言葉のうしろで、桂川の水音だけが、ゆっくりと聞こえていた。








