本作のあらすじ
「先生」——
朝の哲学の道で、ひとりの五十代の男性がたま先生に声をかけてきた。同じ会社のシングルマザーの女性と、五年。秘密の関係、毎月の援助、そして近頃気になりはじめた彼女の振る舞い。
大阪から始発で京都へやって来たその人は、雨上がりの紫陽花の路を、たま先生と並んで歩きはじめる。
男の声で、ようやくこぼれてきたその話に、たま先生は何を返すのだろうか——
「西原さん」
カップを置いて、私は顔を上げた。
「はい」
「彼女のことは、彼女の人生のなかで、これからも続きます。私たちが今日、ここでいくら考えても、彼女は彼女のままです」
「ええ」
「西原さんが今日ここでお決めになるのは、彼女のことではなくてご自分のこれからのことだけなんですよ」
——
西原さんは、ゆっくり頷いた。
「いま、お返事いただかなくて、いいんです」
「はい」
「お家に戻られてご自分のお部屋でもういちど、今日のお話のなかをゆっくり歩き直してみられてくださいね」
「はい」
「『私はどう生きたいか』というところを、ご自分のなかにいちど、置いてみてくださいね」
「はい」
——
会計を済ませて、私たちは店の外に出た。
朝の薄いひかりは、もう、午前の終わりの色に変わっていた。雨上がりの石畳のうえに、雲のあいだから細い陽が、いま落ちはじめていた。
「先生」
格子戸の前で、西原さんは深く頭を下げた。
「今日は、本当に、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ、よくおいでくださいました」
「あの、すみません、最後にひとつだけ」
「はい」
「結論は、まだ出ていません。ただ、今日大阪に帰る新幹線のなかで、自分のことを考える時間にすることはできそうです」
「ええ」
「それで、十分です。先生、本当に」
——
西原さんは、もう一度、頭を下げた。
それから銀閣寺のほうではなく、来た道のほうへゆっくりと歩きはじめた。コーヒーのカップは、もう手のなかになかった。さきほど店の入り口の脇のゴミ箱に、彼は静かにそれを落とした。「捨てる場所を、ようやく見つけられました」——そう声に出さない代わりに、私には聞こえた。
その背中は、来たときと同じ歩幅だった。
けれど肩のあたりだけが来たときより、ほんの少しだけ低くなっていた。その低さのまま、揺れずに歩いていた。決まったわけではない。決まらないことを、自分の中にいちど引き受けた人の、低さだった。
——
西原さんの背中が、紫陽花の生垣の角で見えなくなるまで、私は格子戸の前に立っていた。
それから、私もゆっくり、反対のほうへ歩きはじめた。
——
午後の、二時を少し回った頃だった。
私は地下鉄を乗り継いで、ライブハウスのある路地のあたりまで戻ってきていた。明日の本番の前日、ステージの音響の確認に立ち会うことになっていた。
ライブハウスの入り口の、煉瓦の壁の前で、私はふっと足を止めた。
シャッターの前に、ピアノケースを脇に置いて、煙草をふかしている人の姿があった。草薙さんだった。私が月にいちど京都のライブハウスで歌わせていただくとき、ずっと隣でピアノを弾いてくださっている六十代の方である。
「草薙さん」
私が声をかけると、草薙さんはゆっくりこちらを向いた。
「お、たまさん」
「お早いですね」
「歳取るとな、本番の前の日のほうが、当日より緊張するんよ」
——
草薙さんは、煙草を携帯灰皿のうえで、ゆっくり消した。
それから、ピアノケースを軽く持ち上げ直した。
「明日、よろしくお願いします」
私は、頭を下げた。
「明日の本番、頑張りましょうね」
「うん」
「あんたの今日の声、ええ感じやで」
そう言って、草薙さんは、ふっと笑った。
「まだ、何も歌っていませんよ」
「いや。あんたの今日の声は、もうええ感じや。歌う前から決まっとるわ」
——
私は、思わず笑った。
「ええことやないか」
草薙さんは短くそう言って、シャッターの脇のドアから、ライブハウスのなかへ入っていった。
——
私はしばらく、煉瓦の壁の前に立っていた。
——
西原さんは、いまごろ、新幹線のなかにいるだろう。
窓の外を、京都から大阪までの短いあいだの景色が、流れていく。今朝、彼が始発で見たのと、ほとんど同じ景色である。けれど、行きと帰りでは、空気の温度が違う。同じ景色でも、自分のなかに今朝のひと時間が増えたあとには、もう同じ景色ではなくなっている。
「私はどう生きたいか」
その問いを、彼は新幹線のなかで、すこしずつ転がしてみるだろう。転がしているうちに、彼の指のかたちにそれが少しずつ、馴染んでいくのかもしれない。馴染まないのかもしれない。それは、彼ご自身にしか、知れないことだった。
——
煉瓦の壁のなかから、ピアノの低い音が、ひとつ漏れて聞こえてきた。
草薙さんが明日のために、鍵盤の最初のひと音を置いたのだろう。
私はその音を、しばらく耳のなかに落としていた。
それから、ライブハウスのドアを、押した。
——
西原さんのこれからのお時間に、ご自分のかたちで生きていける日々がすこしずつ増えていきますように。
その短い祈りを、私はドアを押す手のひらの裏にそっと預けた。
煉瓦の壁のうえを、雲のあいだから差した午後の光がいま、薄く伸びていた。








