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彼女に毎月十万渡しています ③

本作のあらすじ

「先生」——

朝の哲学の道で、ひとりの五十代の男性がたま先生に声をかけてきた。同じ会社のシングルマザーの女性と、五年。秘密の関係、毎月の援助、そして近頃気になりはじめた彼女の振る舞い。

大阪から始発で京都へやって来たその人は、雨上がりの紫陽花の路を、たま先生と並んで歩きはじめる。

男の声で、ようやくこぼれてきたその話に、たま先生は何を返すのだろうか——

→ 第1話から読む

「会社の飲み会が、月にいちどあるんです」

西原さんが、水路の流れに目を落としたまま言った。

「ええ」

「彼女は普段、お酒を飲まないんですけれど、その席だけは違うんです」

「ええ」

「お酒が入ると、彼女は、人の腕にふっと手を置く癖が出ます」

——

その「癖」という言い方のなかには、彼が長く自分のなかで、その振る舞いをならして引き取ろうとしてきた跡があった。

「私の前でも、平気で、別の男性の腕に触れるんです」

「ええ」

「最初は、私の知らないところでだけかと思っていました。けれど、ここ二年くらいは私の目の前でも同じように」

——

私は黙って、彼の革靴の運び方を見ていた。

歩幅が、さきほどよりまた半歩、狭くなっていた。

「いちど、車のなかで、それとなく聞いたことがあります」

「ええ」

「『気にしすぎだ』と言われました」

「ええ」

「『ただのスキンシップで、悪気はない』『あなたの考えすぎだ』『五年も付き合っているのに、まだそんなふうに思うのか』と」

——

水路の流れが、さきほどより一段、低い音に変わっていた。

朝の早い時間が、もう少しずつ、午前のほうに傾いている。空の色が、雨上がりの灰から、薄い青を取り戻しはじめていた。

「先週」

西原さんが、コーヒーのカップを、ほとんど無意識のしぐさで握り直した。

「会社のほうで、出張に来ていた既婚の男性社員と、彼女が飲みに行った晩がありました」

「ええ」

「私は、その日は別の会食があって、行けなかったんです」

「ええ」

「あとで彼女から、こう言われました。『あの人、出張で京橋のホテルに泊まってたから、近くまで送ってあげただけだよ』って」

「ええ」

「『何もないから、こうやってちゃんと、報告できるんでしょう』と」

——

私はそこで一度、足を止めた。

止めたつもりはなかった。けれど自分の体のほうが、彼のその言葉の重さを、いったん地面に預けた。私は彼のほうに体を向けずに、水路のなかの小さな魚影に、目を移した。

「西原さんは、どう、お返しになりましたか」

しばらくしてから、私は穏やかに尋ねた。

「『何もなかったから、報告できるんじゃないか』と、聞き返しました」

「ええ」

「そうしたら向こうから逆に、すこし強い声で返ってきまして」

「ええ」

「『そんなふうに私を疑うなら、もうこの関係、続けるかどうか考え直す』と」

——

私たちは、しばらく黙って歩いた。

水路の脇を、軽く泡立つ流れが追い越していった。雨上がりの水量はやはり、いつもの朝より少しだけ多い。

「彼女は、私のことを嫌っているわけではないと思うんです」

西原さんが、自分のほうから言葉を継いだ。

「ええ」

「会えば、笑って話します。誕生日には、ちゃんとプレゼントもくれます。仕事の愚痴も、私にだけ話してくれます」

「ええ」

「ただ、私のほかにも似たような距離の男性が彼女にはいるみたいで」

「ええ」

「全部わかったうえで、私のところには月に二度三度、来るんだと思います」

——

歩道の脇に、紫陽花の蕾の塊が並んでいた。

そのいちばん手前の蕾だけが、ほかのものより一日早く、薄青の色を覗かせはじめていた。私はその青のあたりに、いったん視線を置いた。彼の話のいちばん硬いところに重ねる相づちは、口より先に、目で支えるほうがいい。

「私は貞操とか誠実さとか、そういうものを人として大事にしたい人間です」

西原さんが、低い声で言った。

「ええ」

「それは別に、特別なことを言っているつもりはないんです。普通の、当たり前の」

「ええ」

「五十年以上、自分のなかで持ってきた、当たり前のものさしです」

——

「ものさしのうえに」

私は、ゆっくり相づちを返した。

「『相手が違うだけで、わがままになっていく』ということが、人にはあるものなんですよ」

「先生」

西原さんが、はじめてこちらに体ごと向いた。

「私が、おかしい、んでしょうか」

「いえ」

「彼女が言うように、考えすぎ、なんでしょうか」

——

私はしばらく黙って、彼の目の奥を見た。

そこには答えを欲しがっている人の目と、答えを欲しがっていない人の目が半分ずつ混ざっていた。私が「あなたは、おかしくありません」と言ってあげれば、たぶん彼はその瞬間だけ救われる。けれどそれは、彼が大阪から始発で京都まで来た理由とは、別のところにある救いだった。

私は、答えを返さずに、もう一度水路のほうへ視線を逃がした。

「すこし、座って、お話の続きを聞いてもいいですか」

私はそう言って、若王子のほうへ続く脇道を、彼に示した。

「あの先に、私のいきつけの、小さな喫茶店があります」

「はい」

西原さんは、深く息を吐いた。

それから、私のあとについて、ゆっくりと脇道に折れた。

本作「彼女に毎月十万渡しています」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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