本作のあらすじ
「先生」——
朝の哲学の道で、ひとりの五十代の男性がたま先生に声をかけてきた。同じ会社のシングルマザーの女性と、五年。秘密の関係、毎月の援助、そして近頃気になりはじめた彼女の振る舞い。
大阪から始発で京都へやって来たその人は、雨上がりの紫陽花の路を、たま先生と並んで歩きはじめる。
男の声で、ようやくこぼれてきたその話に、たま先生は何を返すのだろうか——
「会社の飲み会が、月にいちどあるんです」
西原さんが、水路の流れに目を落としたまま言った。
「ええ」
「彼女は普段、お酒を飲まないんですけれど、その席だけは違うんです」
「ええ」
「お酒が入ると、彼女は、人の腕にふっと手を置く癖が出ます」
——
その「癖」という言い方のなかには、彼が長く自分のなかで、その振る舞いをならして引き取ろうとしてきた跡があった。
「私の前でも、平気で、別の男性の腕に触れるんです」
「ええ」
「最初は、私の知らないところでだけかと思っていました。けれど、ここ二年くらいは私の目の前でも同じように」
——
私は黙って、彼の革靴の運び方を見ていた。
歩幅が、さきほどよりまた半歩、狭くなっていた。
「いちど、車のなかで、それとなく聞いたことがあります」
「ええ」
「『気にしすぎだ』と言われました」
「ええ」
「『ただのスキンシップで、悪気はない』『あなたの考えすぎだ』『五年も付き合っているのに、まだそんなふうに思うのか』と」
——
水路の流れが、さきほどより一段、低い音に変わっていた。
朝の早い時間が、もう少しずつ、午前のほうに傾いている。空の色が、雨上がりの灰から、薄い青を取り戻しはじめていた。
「先週」
西原さんが、コーヒーのカップを、ほとんど無意識のしぐさで握り直した。
「会社のほうで、出張に来ていた既婚の男性社員と、彼女が飲みに行った晩がありました」
「ええ」
「私は、その日は別の会食があって、行けなかったんです」
「ええ」
「あとで彼女から、こう言われました。『あの人、出張で京橋のホテルに泊まってたから、近くまで送ってあげただけだよ』って」
「ええ」
「『何もないから、こうやってちゃんと、報告できるんでしょう』と」
——
私はそこで一度、足を止めた。
止めたつもりはなかった。けれど自分の体のほうが、彼のその言葉の重さを、いったん地面に預けた。私は彼のほうに体を向けずに、水路のなかの小さな魚影に、目を移した。
「西原さんは、どう、お返しになりましたか」
しばらくしてから、私は穏やかに尋ねた。
「『何もなかったから、報告できるんじゃないか』と、聞き返しました」
「ええ」
「そうしたら向こうから逆に、すこし強い声で返ってきまして」
「ええ」
「『そんなふうに私を疑うなら、もうこの関係、続けるかどうか考え直す』と」
——
私たちは、しばらく黙って歩いた。
水路の脇を、軽く泡立つ流れが追い越していった。雨上がりの水量はやはり、いつもの朝より少しだけ多い。
「彼女は、私のことを嫌っているわけではないと思うんです」
西原さんが、自分のほうから言葉を継いだ。
「ええ」
「会えば、笑って話します。誕生日には、ちゃんとプレゼントもくれます。仕事の愚痴も、私にだけ話してくれます」
「ええ」
「ただ、私のほかにも似たような距離の男性が彼女にはいるみたいで」
「ええ」
「全部わかったうえで、私のところには月に二度三度、来るんだと思います」
——
歩道の脇に、紫陽花の蕾の塊が並んでいた。
そのいちばん手前の蕾だけが、ほかのものより一日早く、薄青の色を覗かせはじめていた。私はその青のあたりに、いったん視線を置いた。彼の話のいちばん硬いところに重ねる相づちは、口より先に、目で支えるほうがいい。
「私は貞操とか誠実さとか、そういうものを人として大事にしたい人間です」
西原さんが、低い声で言った。
「ええ」
「それは別に、特別なことを言っているつもりはないんです。普通の、当たり前の」
「ええ」
「五十年以上、自分のなかで持ってきた、当たり前のものさしです」
——
「ものさしのうえに」
私は、ゆっくり相づちを返した。
「『相手が違うだけで、わがままになっていく』ということが、人にはあるものなんですよ」
「先生」
西原さんが、はじめてこちらに体ごと向いた。
「私が、おかしい、んでしょうか」
「いえ」
「彼女が言うように、考えすぎ、なんでしょうか」
——
私はしばらく黙って、彼の目の奥を見た。
そこには答えを欲しがっている人の目と、答えを欲しがっていない人の目が半分ずつ混ざっていた。私が「あなたは、おかしくありません」と言ってあげれば、たぶん彼はその瞬間だけ救われる。けれどそれは、彼が大阪から始発で京都まで来た理由とは、別のところにある救いだった。
私は、答えを返さずに、もう一度水路のほうへ視線を逃がした。
「すこし、座って、お話の続きを聞いてもいいですか」
私はそう言って、若王子のほうへ続く脇道を、彼に示した。
「あの先に、私のいきつけの、小さな喫茶店があります」
「はい」
西原さんは、深く息を吐いた。
それから、私のあとについて、ゆっくりと脇道に折れた。








