本作のあらすじ
「右目が、二重に見えるんです」——
関西の街から京都まで、ひとりの四十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
薬の効かない目の不調と、二年続いている誰にも言えない関係。「これは、罰ですよね」とつぶやいた数ヶ月前のメッセージから、季節は梅雨に入っていた。
龍安寺の石庭の縁側で、たま先生はその「罰」という言葉に、何を返すのだろうか——
「ばちが当たった」と口にされたあと、桐原さんはしばらく、何も言わなかった。
縁側の板のうえに、私の手のひらと桐原さんの手のひらが、すこし離れて並んで置かれていた。桐原さんの手の指先は、白くなるくらい、ご自分のひざの布のうえでぎゅっと閉じられていた。
石庭の白砂のうえに、雲が一枚、影を落とした。
そのいちまいの影が、縁側の手前まですっと伸びてきて、桐原さんの足元のところで止まった。止まったまま、しばらく動かなかった。
——
「先生」
「はい」
「あの、ちょっと、変なお話をしてもよろしいですか」
「ええ。どうぞ」
「お薬を変えていただいた次の日でした」
「ええ」
「お昼ごはんを社員食堂で食べていたら、急に、五年くらい前のことが、ふっと頭のなかに戻ってきたんです」
——
「五年くらい前」
「はい。その方とまだお会いする前のことです」
「ええ」
桐原さんは、そこでひとつ唾を飲み込んでから、続けた。
「その日、母から電話があって。父の検査結果が、よくなかったって連絡で」
「ええ」
「私は会社のお昼休みに、廊下の隅で電話を受けて、母の声を聞いて」
「ええ」
「電話を切って、自分の席に戻る途中で、廊下の窓から外を見たんです」
「ええ」
「そのときの空の色が、急に、社員食堂で見ていた窓のうえに、ぱあって重なって見えました」
——
桐原さんは、そこで、少し短く息を吐いた。
「ばあって、っていう言い方も変ですけど、本当にばあって。五年前の窓と、その日の食堂の窓が、いっしょに見えたんです」
「ええ」
「右目のほうから、五年前の景色が来て」
「ええ」
「左目のほうに、いまの景色があって」
「ええ」
「自分でも、なんで急にそんなことが起きたか、分かりませんでした」
——
私はゆっくり、頷いた。
縁側の板のうえに置いていた手のひらを、ほんの少しだけ、桐原さんのほうに寄せた。触れない位置で止めて、それから、また同じ場所に戻した。
桐原さんはそれに気づいていらしたかどうか分からないけれど、お顔は、まっすぐ石庭のほうを向いたままだった。
「先生」
「はい」
「父は、その電話の半年あと、亡くなりました」
「ええ」
「その方とお会いするようになったのは、父のお葬式のあとからでした」
——
そこを、桐原さんはひとつの段落として、置かれた。
「父のお葬式のあと」と「その方とお会いするように」のあいだには、ご自分のうちで何度も繰り返してきた、長い接ぎ目があるはずだった。けれど桐原さんは、その接ぎ目を私に開いて見せようとはなさらなかった。「あと」と「から」だけが、その接ぎ目をいま、つないでいた。
私はそこに、入っていかなかった。
——
「お薬を変えた次の日に、五年前のあの廊下の景色が、ふっと戻ってきて」
「ええ」
「それから、その方からのメッセージのお知らせが、スマホで光って」
「ええ」
「お知らせの音と、五年前の母の声が、一瞬、重なって聞こえました」
「ええ」
「右目の見え方がまた、同じようにぼんやり二重になって」
「ええ」
「そのときに、思ったんです」
——
桐原さんは、そこで自分のひざのうえの両手をほどいて、片方の手で、右目のすぐ下のあたりを、軽く触れた。
ご自分の右目に、いま見えているものを、ご自分の指で確かめるような触れ方だった。
「私、もしかしたら、ふたつのことを、いっぺんに見ようとしてきたのかもしれない」
「ええ」
「父のいなくなった世界と、その方がいる世界と」
「ええ」
「夫がいる毎日と、その方と過ごす時間と」
「ええ」
「ずっと、ふたつのものを、いっぺんに見ようとしてきて」
「ええ」
「目のほうが、それを、もう、許してくれなくなったんじゃないか、って」
——
縁側のうえを、また風が抜けた。
その風は、すこし強かった。石庭の白砂のうえに、薄い縞のような跡をいっとき残して、すうっと通っていった。
桐原さんはお顔を石庭のほうに戻されて、それからゆっくり、もう一度口を開かれた。
「これって、罰ですよね」
「先生、これって」
「私のうちがわが、私を罰しているっていうことですよね」
——
私は、すぐには返さなかった。
桐原さんは、ご自分のいちばん奥にあったものを、いま、ご自分の口で引き上げていらした。引き上げる途中で誰かに手を貸されると、その引き上げたものは、ご自分の手のなかにきちんと収まらない。私はそのことを、長い時間をかけて、身体で覚えてきていた。
縁側の板の冷たさが、私のお尻のあたりから、ゆっくりと立ちのぼってきた。
——
桐原さんは、しばらく、両手で、ご自分の右目のあたりを覆っていた。
その指のあいだから、息だけが、ゆっくりと、いくつか出ていた。
涙、ではなかった。
涙にすらなりきれない、もっと手前の、何か深いところから出てくる息だった。
私はそばに座って、その息の数を、いっときご一緒に数えていた。
——
石庭の白砂のうえに、午後のほうの光が、また少し位置を変えていた。十五個ある石のうちの、いちばん大きな塊のあたりに、いまは光が当たっていた。
風が、もう一度、苔のいちばん端のところまで通っていった。
桐原さんが、ようやく、両手をひざのほうに戻された。
その手のひらは、ご自分の右目を覆っていたあいだに、すこしだけ赤くなっていた。
「先生」
「はい」
「私、自分の口で『罰』って、言ってしまいましたね」
——
桐原さんはそう言って、ご自分の指でご自分の口元のあたりを、軽く撫でた。
何かを確かめるような撫で方だった。
私はその手の動きを、横顔の視界の端で、静かに見ていた。








