本作のあらすじ
「右目が、二重に見えるんです」——
関西の街から京都まで、ひとりの四十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
薬の効かない目の不調と、二年続いている誰にも言えない関係。「これは、罰ですよね」とつぶやいた数ヶ月前のメッセージから、季節は梅雨に入っていた。
龍安寺の石庭の縁側で、たま先生はその「罰」という言葉に、何を返すのだろうか——
縁側の板のうえに、午後の薄い光が、平たく落ちていた。
雨上がりの空はまだ完全には晴れきっていない。雲のあいだから差してきた光が、石庭の白砂のうえを斜めに走って、それから苔の縁のあたりで途切れる。光と影のさかいめが、見ているうちに、ほんの少しずつ位置を変えていく。
桐原さんは、しばらくのあいだ、何も言わなかった。
私も、何も問わなかった。
並んで座っているかたちというのは、向かい合うのとは違って、お互いの口元を直接は見ない。私は桐原さんの右側に座っていて、視界の端に、桐原さんの横顔だけがほんの少し、入っていた。
——
ふいに、桐原さんが、自分のひざのうえで両手を組み直した。
「先生」
「はい」
「目のことから、お話しても、よろしいですか」
「ええ。お話しやすいところから、で大丈夫ですよ」
桐原さんは、すこし頷いた。
それから、視線を石庭の右端のほうに置いたまま、ゆっくり言葉を始めた。
「最初におかしいなと思ったのは、去年の秋でした」
「ええ」
「夜、本を読んでいて、ページの端の文字が、ぼんやり二重に見える日があって」
「ええ」
「目が疲れているだけだろう、って思っていたんです。最初は」
「ええ」
「眼科に行ったのは、年が明けてからでした。年末まで、ほうっておいてしまって」
桐原さんはそこでひとつ、息を吐いた。
「眼科では、いくつか検査をしていただいて、お薬を出してもらいました。最初のお薬は、二週間ほどで効かなくなって、別のお薬に変わって。それも一ヶ月ほどで、また変わって」
——
そこまで聞いて、私はゆっくり頷いた。
「お薬を変えていただくたびに、しばらくはよくなる感じが、あるんですか」
「最初の数日だけ、ふっと見えるようになるんです。あ、戻ってきた、って」
「ええ」
「でもひと月もすると、また同じになって」
「桐原さんのご職業は、目を多く使われるお仕事でしたか」
「経理を、やっています。長く勤めている会社で。数字とメールで、一日が終わります」
「ええ」
「同僚にも上司にも、目のことは話していません」
「ええ」
「『右目が二重に見えるみたいで、しばらく休みます』って言うのが、なんだか、こわくて」
——
縁側のうえを、いちまい風が抜けた。
石庭の白砂のうえを、雲の影がいちまい、ゆっくりと横切っていった。
「先生」
「はい」
「お薬の話は、ここからもう少し、別のほうへ行ってもいいですか」
「ええ。どうぞ、ご自分のいきたい順にお話しくださいね」
桐原さんは、そこでもういちど息を吸って、それからゆっくり吐いた。
「もうおひとり、いるんです」
「ええ」
「夫ではない、男性が」
——
その一文を桐原さんは、抑揚をほとんど付けずに口にした。
長く、ご自分のうちがわで何度も並べ直してきた言葉だった。「不倫」とも「浮気」とも違う、ご自分のなかでいちばん自分の輪郭にあう一文を、桐原さんは選ばれた。
私は、すぐには相づちを打たなかった。
縁側の板に置いた手のひらの下で、木の温度がほんの少しだけ、午後の光に温められていく感じがした。
——
「先生」
「はい」
「最初にお会いしたのは、二年と二ヶ月前です」
「ええ」
「会社の取引先の方で、お仕事の話を何度かしているうちに」
「ええ」
「向こうも、ご家庭がおありの方です」
「ええ」
「最初の半年は、ただお食事に行くだけでした。そのあとから、関係が変わりました」
そこまで言って、桐原さんは口元を、軽く結んだ。
「『関係が変わった』って言葉も、いま自分で使ってみて、ちょっと、変な感じがしました」
「と、おっしゃると」
「もっとはっきり、自分のうちでは別の言葉で呼んでいるんです。でも先生にお話するときに、こういう言い方になりました」
「ご自分のうちで、別の言葉で呼んでいらっしゃる」
「はい」
——
私はそこを、もう少しお聞きしてもよかった気がしたけれど、すぐには問わなかった。ご自分でその「別の言葉」をいま、こちらに差し出すかどうか。それは桐原さんが、ご自分の呼吸の速さで決められることだった。
苔のいちばん端のほうで、雨上がりの雫がひとつ、葉のうえからほろりと落ちて、土に吸われる音だけが小さく届いた。
「目のことに、戻ってもいいですか」
「もちろんです」
「眼科のお薬を、いま三種類目になります」
「ええ」
「いちばん最近処方されたのが、この四月の終わりでした」
「四月の終わり」
「はい」
——
そこで、私は心のなかで、ひとつ短く頷いた。
桐原さんから最初のメッセージが届いたのが、四月の終わり頃だった。お薬が三種類目に変わって効かないと分かった夜のうちに、あの一行は打たれたのだ——文面の組み立てから、私はそう推し測った。
「四月の終わり」と口にされた声には、その夜をいちど思い出されている色があった。
——
「先生」
「はい」
「お薬が三種類目になって、効かないと分かった夜に、その方からのメッセージが、たまたまスマホに入ってきました」
「ええ」
「『今度の連休、会えるかな』って、それだけのメッセージでした」
「ええ」
「その方には、目のことは、まだ話していません」
「ええ」
「そのとき、画面のうえに、その方の名前と、眼科のお薬の名前が、重なって見えたんです」
——
桐原さんは、そこで、ふっと右目を細めた。
それから、また石庭の右端のほうへ、ゆっくり視線を戻した。
「ばちが当たった、って思いました」
「ええ」
「最初の二週間は、それを毎晩、自分で考えていました」
「ええ」
「『これは、罰なのかもしれない』って」
——
縁側の板のうえで、私の手のひらは、桐原さんの隣で、ただ静かに置かれたままだった。
石庭の白砂のうえを、午後の光がまた、すこし位置を変えた。








