本作のあらすじ
「私が、彼を、見捨てたんです」——
関西のある街から京都へ、二十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
見栄っ張りな元ご主人の好みに合わせ、若くして自分名義で組んだ大きなローン。義母の言葉、子どものこと、そして自分から切り出した離婚。新しい彼や周りの支えがあってもなお、夜になるたびに「私が彼を見捨てた」という声が消えない。
梅雨入り前の北山の朝、たま先生はその罪悪感の渦のなかにいる人に、なにを差し出すのだろうか——
「でもそれからずっと——」
引き上げられた声を、西村さんはもう一度、ご自分のなかで取りに行かれた。カップの取っ手から指を離して、両手でいったん、カップを包まれた。湯気は、ふっと細い柱になって、二人のあいだに立ちのぼった。
「私が、彼を、見捨てたんです」
——
その一文を口にしたあと、西村さんは目を伏せられた。
伏せた瞼の縁が、ほんのすこしだけ赤かった。けれどそこから先には、まだ、何も流れていかなかった。涙よりも前のところで、長いあいだ、せき止められてきている人の表情だった。
私は何も言わずに、しばらくその表情を見ていた。
——
朝の光が、いつのまにか、店のなかにもう一段だけ深く差しこんでいた。
奥の坪庭の苔が、さっきよりもひと段だけあかるい緑になっている。青もみじの若葉のいちまいが、窓ガラスに薄く影を落としていた。
その影の輪郭のなかに、西村さんの肩のあたりが入っていた。
——
「家を出たあと、しばらく実家に戻りました」
しばらくして、西村さんが続けられた。
「両親はすこしだけ驚いたあとに、すごく、優しかったです」
「ええ」
「『よう決めたな』って、父が一度だけ、そう言ってくれました」
「ええ」
「それから、いまの彼ができて」
「ええ」
「彼はもう、私のローンのことも家を出てきたことも、ぜんぶ知ったうえで一緒にいてくれてます」
「ええ」
「友達も何人か、夜中まで電話で話を聞いてくれて」
「ええ」
「だから私、ほんとうは、いまもう恵まれてるはずなんです」
——
「恵まれてるはずなんです」のあとで、西村さんはふっと、息のかたちが変わった。
ほんとうは、と言われた。「ほんとうは」という三文字を、西村さんはご自分のなかで何度も繰り返してこられたのだろう。本当のところを表ざたにしないために、その三文字をいつも先に立ててきた。それが私には、はっきりと聞こえた。
——
「先生」
「はい」
「夜になると、また、目が覚めます」
「ええ」
「彼の家にいたときと、おなじように」
「ええ」
「天井を見ているうちに、彼の顔が、浮かんでくるんです」
「ええ」
「いまごろ彼は、あの大きな家を、どうしているんだろうって」
——
そこで西村さんは、両手で包んでいたカップから、片方の手を離された。
その手で、ご自分の左の胸の下のあたりを、軽く押さえられた。「ここが、いまずっと、痛いんです」とおっしゃるための動作だった。けれど西村さんはその言葉を声には出されずに、ただ手のひらで、その場所を確かめていらした。
「医療のほうにも、かかっていらっしゃるんですよね」
私はそう尋ねた。
「はい。お薬も、毎日飲んでいます」
「眠れないときの、頓服も?」
「いただいています」
「先生、お一人とちゃんと続けて、ご相談されていらっしゃる」
「はい」
「それは、続けてくださいね。専門のお薬と、お医者さまの伴走と、そこの土台はそのまま大事にされてください」
「はい」
——
私はカップを、いったんソーサーに戻した。
西村さんがいま、ご自分の身体に起きていることを、ご自分でちゃんと診ていただこうとされている。それは、罪悪感の渦のなかにいる人がぎりぎりのところで自分のために選び続けている、すごく大事な道だった。
——
「先生」
「はい」
「私が、いちばん怖いのは」
「ええ」
「夜中の、あの声なんです」
「お声、ですか」
「私の中で、誰かが、ぼそっと言うんです」
「ええ」
「『彼の人生を、お前が壊した』って」
——
カップのなかの液面が、しずかに揺れた。
西村さんはその「お前が壊した」のあとを言葉にされなかった。代わりに、ご自分の左の胸のしたから、手を膝のうえに戻された。膝のうえで、両手のかたちがもう一度そろえ直された。
「先生、それを聞きながら自分を責めるんです」
「ええ」
「責めるのを、やめたいって、ほんとうは思ってます」
「ええ」
「でも、責めなければいけない気もして」
「ええ」
「責めないと、私が私を許してしまう気がして」
——
「許してしまう」のあとで、西村さんはふっと、ご自分の口元を片方の手で覆われた。
そこで初めて、瞼の縁にためられていた水のひとしずくがまつ毛のあいだから、頬のうえに静かにこぼれた。
しずくは、頬のなかばまで降りて、そこでいったん止まった。西村さんはそれを拭おうとはされずに、ただ口元の手のかたちを保たれていた。
——
朝の光のなかで、しずくの一点だけが、すこし強く光っていた。
私はそのひかりがしばらくのあいだその位置から動かないことを、ただ静かに見ていた。








